名もない気持ち
何も考えないで済むならそれでいいと思ってた。
けど実際のところ、平凡な人生に起きた不幸が、何度流しても落ちない泥汚れみたいに、心にまとわりついてきて、悔しくて泣き続けていたことがあった。
抜け出したかった。事実は変わらないなら、時が過ぎて穏やかな気持ちを取り戻せる未来まで、辿り着きたかった。
早く・・・早く・・・・
そう思いながら、受験勉強と言う名の、頭にそれらを叩きこむ作業をしていた。
春が来て
志望していた国立大学の法学部に受かった。
正直ダメだろうなと思っていたけど。
滑り込みだったんかな・・・
入学式やらレクリエーションやらなんやらを終えて、足取り重い中講義室へ初めて行った日
顔を合わせた津田と、少し他愛ない話をしながら腰を落ち着けて、お互いよく受かったよななんて皮肉を言い合った。
何番目かなんて気にならなかったけど、津田は別の学部の知り合いから、今年の主席入学者の名前を聞いたと言った。
「 って子らしいわ。女の子かなぁ?男かな?すっげぇ美人の才色兼備だったら会ってみてぇなぁ。」
おどけてそんなことを言う津田が、相変わらず空元気を絞り出せないでいる俺を、気遣ってのことだということはわかっていた。
翌日、悪夢を見なかったことに安堵しながら、いつものようにリビングへ降りた。
母さんが朝食のスープをテーブルに置いたところだった。
父さんは小さ目の音量で流れる、ニュース番組に奪われていた視線をこちらに向けて、おはようと言った。
夜勤だったはずの母は、わざわざ起きて朝食を作ってくれたようだったので、お礼を言って自分のパンをトースターに押し込み、後はやって片付けもしてから家を出ると、休むように伝えた。
淡々と食器を用意して、小麦の香りが立ち込めるそれを乗せて、卵とハムを適当に焼いた。
サラダを取ってスープを注いで、寝ぼけた声で「いただきます」と述べて、静かに口に運んでいく。
淡々と耳に入ってくるニュースキャスターの声、窓から差し込む日差し・・・
家族が一人減ったのに、それらは何も変わらない。
朝食の味も変化しない。いつもと同じだ。
今日も俺は繰り返さなきゃいけないんだろうか。
平気な気持ちを装って・・・
時々向かいに座ってコーヒーを飲む父からの視線を感じた。
何か声をかけたいと思案してるのかもしれない。けど踏み出せないでいるヤキモキした様子を見受けたので、俺はスマホで天気を確認して、他愛ない気温の話を振る。
父はいつもの調子で返事をして、時折大学のことを聞きながら、昔自分が学生だった頃の学校の様子などを話してくれた。
小さい頃から慣れ親しんだ玄関を出て、大学に着く頃、いつも歩いて電車に乗ってやってきている道中を、あまりにボーっと歩き過ぎて、何も覚えていないような感覚に陥っていることがあった。
いつものように講義室に足を踏み入れた時、時間が早かったせいか人はまばらで・・・というか、まだ俺を除いて一人しかいなかった。
あっらぁ・・・閑散としてるわ・・・
シン・・・と静まり返った講義室の大きな窓の方に、小さな背中が一つ見えるだけだった。
俺は何となくその子の近くに座りたくなって近づいた。
斜め後ろ辺りに来ると、サラサラしたショートヘアの毛先が、撫でるようにその細い首を服の間から覗かせていた。
その肌はとても白く見える。
リュックを机に置きながら、何となく静かに読書しているその子の顔を確認した。
その時、頭の中でカチリと、時間が停まった気がした。
え・・・・・・・・・かわい・・・・・・・・・え・・・・・?
人に対してそんな風に衝撃的に思うことはなかった。
たぶんだけど、そんなに目立つ子ではないのは確かだ。
可愛いと感じたのは恐らく俺の好みの問題で、芸能人のような絶世の美女というわけではないと思う。
昔から周りが無茶苦茶可愛いという女の子を見ても、特に何とも思わなかったので、正直自分の審美眼は信用ならないけど、目鼻立ちが整った子だと思えた。
大人しく本を眺めているその姿がとても似合っていて、静かにページをめくる指先まで完璧に見えた。
呆然と眺めていた自分に気が付いて、慌てて席について頬杖をつき、チラチラと何度もその子の顔を盗み見た。
白い肌に大きな目、長いまつげ・・・灰色のパーカーを着てる。
顎の先まで伸びた髪の毛は黒黒していて、綺麗な陶器のような横顔を包んでいた。
あれ・・・・・
ちらほらと講義室に人の気配が入って来て、話し声が聞こえつつ人々が席についていく。
尚もその子を見つめていた俺は、喉元を見て気が付いた。
あの子・・・男の子か・・・?
白くてシワ一つない喉元には、確かに喉仏が見えた。
しっかし穴が開くほど見つめていても気づかないもんだな・・・よっぽど集中してるのかな。
女の子だと思い込んでたの、失礼だったな・・・
いくら中性的な見た目や服装をしていても、身体的な変化があれば、それは性別を浮き彫りにさせる。
彼女は、ではなく、彼だ。
その後何日か、同じ講義を取っている彼を、斜め後ろに座って眺めるのが日常になった。
或る日大学の図書室に興味本位で行ってみると、また窓際の隅で偶然彼を見つけた。
傍らに本を積んで、分厚い参考書かなんかを広げて勉強していた。
側を通っても、脇の本棚からチラチラ伺っていても、彼は気付かなかった。
真剣なまなざしが、時々頬杖をついてため息をついたり、ペットボトルのお茶を飲んだりしているのを見ていると、仕草と言うか所作と言うか・・・丁寧な動きだけど男性だとわかった。
どうやらその子は空きコマを利用して、図書室で勉強しているようだった。
運の良いことに、俺も同じタイミングで空きコマだったので、何度か盗み見ていたわけだけど・・・
日に日に声をかけたいという欲が強くなっていた。
殺伐とした毎日を繰り返していたけど、いつしか家を出て記憶のない通学路を歩むのことはなくなり、その子のことを考えた。
恐らく同じ一年生のはず・・・
どんな声で話すんだろうか・・・どんな性格で・・・どんな風に笑うんだろう。
何で自分でもこんなに気になるのかわからない。
これで相手が女の子なら、一目惚れしちゃったなぁ・・・と腑に落ちる話だけど
相手は男の子で、名前も知らなくて・・・偶然同じ大学で、同じ学部。
けど・・・・それって実際すげぇ偶然だよな・・・・
何か少し違えば、出会うことなかったってことだよな・・・
そう
何か一つ違えば、朝陽だって死ななかった。
けど・・・妹は側にいた親子をかばって轢かれた。
立派だったと思う・・・なんていい子なんだろうと思う・・・
けどそんなこと俺には関係ない。
俺にとって朝陽は、たった一人の妹で、たった一人の兄弟で、たった一人の存在だった。
また同じことを考えて滲みそうになる視界を振り払って、俺はその日も空きコマの時間、図書室へと向かった。
その子はいつものように、参考書を隣に開きながらノートに向かって勉強していた。
その集中力はすさまじくて、人気のないその机付近を俺がウロウロしても、一向に気にも留めることはない。
けど・・・さすがに隣に座ったら気付くよな・・・。
俺は勇気を出して隣の椅子の背を引いた。そしてゆっくり腰かける。
がしかし・・・静かにペンを走らせる音だけが隣から聞こえて、特に何も視線は返ってこない。
マジか・・・・
気付かれないとは思わなかったけど、本当に集中している様子で、一瞥もくれなかった。
よし・・・
「ね・・・君・・・」
そっと小声で声をかけると、手を止めた彼はパッと俺を見た。
「・・・はい。」
柔らかくて低すぎない、確かに男の子の声だ。
「あ、ごめんな?勉強中に・・・。いや、いっつもここで見かけるからさ、声かけたいなって思ってたんだ。」
「はぁ・・・えっと・・・」
「あ、俺朝野、朝野 夕陽。法学部の1回生。」
「・・・柊です。俺も法学部です。」
俺は頭の中をフル回転させた。
「やっぱそうだよな?結構同じ講義取ってるっぽいからさ、見かけてたんだよ。入学してからもう一月くらい経つけど、なかなか話せる友達出来なくてさ・・・同じ学部の知り合いほしいなぁって。」
「そうなんですか。俺も特にまだ法学部の知り合いいなかったので・・・よろしく。」
「よろしく!同い年なんだから敬語で話さなくていいって。・・・・もしかしなくとも、法律の勉強中?」
「あ、うん。弁護士目指してるから・・・。」
「マジで?すげぇな・・・。まぁ法学部ならそういう人多いか。・・・ん?・・・柊・・・もしかして下の名前って薫?」
「え・・・うん・・・。」
「やっぱ、そうだ。俺他の学部には同級生だった知り合いいるんだけど、主席入学した人の話をたまたま聞いたんだよ。柊だろ?」
「ああ・・・まぁ・・・。」
「すっげぇなぁ・・・。ただでさえ偏差値高いのに、おまけに一番だなんて・・・。俺そんな知り合いいたことないわ。・・・・・・な、連絡先聞いていい?」
「あ、うん。」
俺はポケットからスマホを取り出して、メッセージアプリを開いた。
「ありがと・・・。な~んか・・・ナンパしてるみたいだよな俺・・・。」
「ふふ・・・みたいというより、ナンパなんじゃないの?」
そう言われて思わず心臓が止まりそうな程脈打った。
「ま、そうかも?・・・あの、てか・・・今更だけど、男の子だよな?」
「・・・・そうだけど・・・」
「だよな?いやぁボーイッシュな女の子だったらどうしようかと思って。普通にそれこそナンパだよな。」
彼はそつない苦笑いを俺に返した。
やっべ、聞き方まずかったか・・・?
「いや、こことか講義室で見かけてた時、華奢な子だなぁ・・・って思ってて、んでも服装からしても男子だよなぁって思いつつ・・・。つっても最近じゃそういうスタイルの子もいるしさ、ジェンダーというか・・・。あ、っていうかこういう言い方するとセクハラになんのかな・・・ごめん。」
「・・・いや、別に・・・。」
「俺タッパだけはあるからさぁ。声かけるとちょっと怖がられるんよな。」
自分だけが少し強引に話し過ぎたような気がして、俺は慌てて立ち上がった。
「てかごめん、邪魔して。今度からは勉強中に声かけねぇから。またな。」
「うん、ありがとう。・・・確かに身長高いね・・・。」
「まぁ・・・体格だけでバスケ部だったんだずっと。185あるから・・・。柊は?」
「俺は・・・たぶんだけど、165センチとかかな・・・。」
「あはは、それは可愛いサイズだな。んじゃ。」
初めてその子からの視線を背中に感じながら、その場を後にした。
「・・・・・・はぁ・・・・・緊張した・・・・」
階段を降りる手すりに体重をかけて、思わず口をこぼした。
登録されたその名前を、スマホの画面に映し出す。
「柊・・・・・薫・・・・・。薫・・・・・。」
何故か自然と笑みがこぼれた。
新しい友達が出来たという高揚感じゃない。
そんなもんじゃなかった。
「やば・・・・あ~・・・何だろ・・・・」
ゆっくり階段を降りながら、スマホを握りしめる。
この気持ちをなんて呼ぼう。