11話:イラクのクウェート侵攻、イラクの人間の盾
なお、イラク軍にすらこの侵攻計画は事前に知らされておらず、参謀総長や国防大臣は侵攻をテレビやラジオの報道で聞かされ寝耳に水の状況だった。クウェート軍の50倍の兵力での奇襲で8時までには、クウェート全土を占領した。同時に革命指導評議会は、クウェート政権が打倒されたと宣言した。
同日夕刻にイラク国営放送が、クウェートにおいて革命を起こした暫定自由政府「ほぼ全員の政府閣僚が、クウェート人に知られていないイラク軍人による傀儡政権だったと見られる」の要請により介入したと報じた。一方、クウェートのジャービル3世首長はサウジアラビアへ亡命した。異父弟のファハドは少人数の警護隊と共に宮殿内での銃撃戦で死亡した。
これは、「一説には、乗っていた飛行機がクウェート国際空港で足止めされ、イラク軍に拘束され殺害されたとも言われてる」クウェート暫定政府はアラー・フセイン・アリーを首班とするクウェート共和国と名前を変えたが、翌日にはイラクに併合された。イラクの軍事侵攻に対し同日中に国際連合安全保障理事会は即時無条件撤退を求める安保理決議660を採択、さらに8月6日には。全加盟国に対してイラクへの全面禁輸と宣言した。
この経済制裁を行う決議661も採択した。この間に石油価格は一挙に高まったものの、決議661の経済制裁によって、イラクにとってメリットはなかった。8月7日、ブッシュ大統領は「サウジアラビアへのイラクによる攻撃もあり得る」と説得。アメリカ軍駐留を認めさせ軍のサウジアラビア派遣を決定した。
アメリカはイラン・イラク戦争の際にイラクを支援しサウジアラビアも国内にメッカという聖地を持っていた。そのため、外国人に対して入国を厳しい国であり友好国だが、異教徒の国の軍隊の進駐を認めることは、多くのイスラム国家にとって予想外の出来事だった。
しかし、サウジアラビアとしても石油の過剰輸出の件でイラクと対立していたこともあり、クウェートに続いて自国も侵略される事を恐れていた。バーレーン、カタール、オマーン、アラブ首長国連邦といった湾岸産油国も次々にアメリカに同調した。しかし国連軍の編制は政治的に出来ないため、アメリカは「有志を募る」という形での多国籍軍での攻撃を決めた。
アメリカの同盟国かつクウェートと歴史的につながりの深いイギリスやフランスなども続いた。エジプト、サウジアラビアをはじめとするアラブ各国もアラブ合同軍を結成し参加した。アメリカと敵対関係にあったシリアも参戦を決定したが、これはレバノン内戦に関する取引であった。
アメリカはバーレーン国内に軍司令部を置き、延べ50万人の多国籍軍がサウジアラビアのイラク・クウェート国境付近に進駐を開始した。イラクは国連の決議を無視し、さらに態度を硬化させ8月8日に「クウェート暫定自由政府が母なるイラクへの帰属を求めた」として併合を宣言した。
8月28日には、クウェートをバスラ県の一部と、新たに設置したイラク第19番目の県「クウェート県」に再編すると発表した。8月10日にアラブ諸国は首脳会談を開いて、共同歩調をとろうとしたが、とりあえずイラクを非難する程度であった。10月8日にエルサレムで、20人のアラブ系住民がイスラエル警官隊に射殺されるという中東戦争以後最大の流血事件が起こった。
それに対しフセインは、激しく非難したが、これを機にパレスチナ問題が国際社会で大きく取り上げられた。また、この主張によりPLOは、イラク支持の立場を表明した。そして、ウェートやサウジアラビアからの支援を打ち切られて苦境に立ち、その後のオスロ合意調印へと繋がる事になった。さらにイラクは、8月18日に、クウェートから脱出できなかった外国人を自国内に強制連行。
そして「人間の盾」として人質にすると国際社会に発表。その後、日本やドイツ、アメリカやイギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。この中には、クウェートに在住している外国人だけではなく日本航空やブリティッシュ・エアウェイズの乗客や乗務員などイラク軍による侵攻時に一時的にクウェートにいた外国人も含まれていた。
この非人道的な行為は、世界各国から大きな批判を浴びた。その後、イラク政府は、アントニオ猪木が訪問した後に解放した日本人人質41人など小出しに人質の解放した。その後、多国籍軍との開戦直前の12月に全員が解放された。だが、その後もイラクはクウェートの占領を継続し国連の度重なる撤退勧告をも無視した。
そのため、11月29日、国連安保理は、翌1991年1月15日を撤退期限とした決議678「対イラク武力行使容認決議」を採択した。1月17日、多国籍軍はイラクへの爆撃を開始した。この最初の攻撃は、サウジアラビアから航空機およびミサイルによってイラク領内を直接たたいた。「左フック戦略」と呼ばれるものであった。