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さらさら  作者: 藤堂左近
8/14

 奪われた下り米は、意外にもあっさり見つかった。というのも手伝った一人が金欲しさに米を持ち出し売っていたのだ。問屋でも百姓でもない者がこの不作の折に米を売っているということで、あっという間にお縄となったわけだ。が、男は捕まった次の日には冷たくなっていた。


「詳しく取り調べられたらまずいからだろう。それにしても早い。こりゃ間違いなく奉行所内に手を下した者がいるな」


 藩邸の一室で、重実は情報を持ってきた小弥太を前に、渋い顔をした。とりあえず下り米の一件は、此度の捜査で荷下ろしした場所からほど近い舟宿の蔵に、砂の詰まっていた俵とそっくり同じ数だけの米俵が見つかったことで、無事事なきを得た。

 さほど騒ぎにもなっていないので、小野が罪に問われることもないという。だが一気に田沢を追い込むことは難しくなった。


「この分では荷下ろしを手伝った他の者も危ないかもしれませぬ」


 伊勢が固い表情で言う。下り米のすり替えは、殺された一人だけの仕業ではない。何人か仲間がいるはずだ。


「そうだな……。変に事情を知ってる奴は、消してしまったほうがいい。どこで漏らされるかわかったもんじゃないからな」


「でも田沢派と奴らとの繋がりは、調べようがありませぬ。唯一の手掛かりを殺されてしまいました故」


「いや、殺された野郎のことはわかるんだろう? だったらそいつの周りを洗えばいい。そういうことに乗る奴だ、似たような奴らとつるんでるはずだぜ」


 そう言って、重実は小弥太に、殺された男の素性を調べて欲しい、と安芸津に言伝を頼んだ。


 安芸津らも同じ考えだったらしく、男の素性はすぐにもたらされた。教えられた情報を元に、男が住んでいたという長屋を訪ねてみると、住人はあからさまに男を毛嫌いしていた。


「しょっちゅう悪たれどもとつるんで、遊び歩いてるような奴だよ。何やってんだか、家にも滅多に帰ってこないし、帰ったと思ったらうるさく騒ぐし。隣町の彦佐ひこざって奴と組んで、よく暴れ回ってたよ」


 住人から聞き出した彦佐なる人物を訪ねようと長屋を出た重実は、空を見上げた。すでに日は傾いて、薄闇が迫っている。これから隣町の長屋に行っていたら、帰る頃にはとっぷりと日は暮れていよう。


「……けど、出直すのも面倒だ」


 それに、この時刻なら家にいるかもしれない。丁度飯でも食いに出てくればしめたものだ。重実は足早に隣町の教えて貰った長屋に向かった。

 件の長屋が前方に見えてきたときに、木戸から人影が現れた。おや、と目を凝らすと、先ほど聞いた彦佐の風体によく似ている。やはり飯を食いに外に出たのだ。その辺の人に部屋を聞く手間が省けた、と小躍りしながら後を追おうとした重実だったが、ふと足を止める。


 前を行く彦佐はやけに怯えた様子で、やたらと周りを警戒している。どうしたのだろう、と不思議に思いつつ後を尾けていくと、やがて川沿いの細い道に出た。この辺りは立ち並ぶ屋敷の裏手になるので、人通りはあまりない。人通りが絶えれば、尾けるのは難しい。

 少し土手のほうに降りたほうがいいかな、と川辺に目をやった重実は、柳の木の陰から、ゆらりと人影が通りに出てくるのを見た。振り向いた彦佐の顔が強張る。不意に現れたのは侍のようだ。大刀を一本、落とし差しに差している。そういえば気配を感じなかった、と思っていると、侍はずらりと大刀を抜いた。


「……ひぃっ!」


 彦佐が息を呑むのと重実が地を蹴って走り出したのは同時だった。走りながら抜刀する。反転して逃げようとした彦佐が、足を絡ませて倒れ込む。侍が、一気に間合いを詰めて大刀を振り被った。銀の閃光が走る。

 キィン、と金属音が鳴り、大刀が横に流れた。侍が、驚いた顔で彦佐と己の間に走り込んできた重実を見ている。


「……何者」


「へ。単なる通りすがりさね。侍が無抵抗の町人を斬るのは見逃せねぇ」


 低く構えを取りながら、重実は対峙する侍をしげしげと見た。上背のある、がっしりとした体躯だ。おそらくこれは、十分に鍛錬を積んだ身体だろう。先の切り下げも、かなりの威力だった。

 闇に、殺意に燃える目が光っている。ぞく、と重実の背を悪寒が走った。侍は束の間重実を見ていたが、不意に顔を上げた。前方から提灯の灯が近付いてくる。


「命拾いしたな」


 呟くや、侍は踵を返して足早に去っていった。


「……」


 侍の後ろ姿が完全に視界から消えてから、重実は大きく息を吐いた。物凄い剣気と殺気だ。今さらながら、震えがくる。


「ふっ……ふふふ。あっはっは」


 納刀しながら、重実は笑い声を上げた。久々だ。武者震いが来るほどの剣客と対峙した。肩を震わせながら目を落とすと、足元に顔面蒼白なまま腰を抜かしている彦佐が見上げている。


「おぅお前さん、前に上方からの米俵を荷下ろししたことがあるだろう」


 屈んで顔を近付けると、彦佐は、びく、と身体を強張らせた。


「身に覚えがあるようだな。その仕事、誰に頼まれた?」


「お、おれはただ……く、口入屋で仕事を見つけただけだ!」


「嘘こけ。お前、てめぇの評判を知らねぇのか。今までまともに働いたこともない野郎が、真面目に口入屋なんかに仕事を貰いに行くもんかよ。行ったところでお前なんざ、けんもほろろだぜ」


 口入屋だって、誰にでも仕事を世話してくれるわけではない。いかにも遊び人な彦佐など、まず無理だ。


「米俵をいくつか、持ち込んだ砂袋とすり替えろと言われたはずだぜ」


 ずばりと言うと、彦佐は口を引き結んで下を向いた。


「……し、知らねぇ」


 ややあってから、ぼそりと彦佐が呟く。


「おい、おれぁお前の命を助けたんだぜ。言わねぇってんなら、あの侍の代わりにおれが斬り殺してやろうか」


 刀の柄に手をかけて言うと、彦佐は慌てたように顔を上げた。


「違う! 誰からの依頼かってのは、ほんとに知らねぇんだ。いつもの飲み屋で集まってたら、いきなり声かけてきた奴がいてよ、金になる仕事があるっつぅから、ついて行ったんだ。そこで、米俵を砂袋にすり替える計画を聞いた」


「誰だよ、そいつは。どんな奴だ」


「だから、知らねぇって。こういうことは、お互い後腐れないよう、深くは突っ込まねぇんだよ」


「でも向こうはお前のことを知っていたってことだぜ。今襲われたのだって、その仕事の関係だろ」


 う、と彦佐が黙る。そうは言ったものの、元々彦佐たちを選んで抜擢したわけではあるまい。おそらく初めは放っておくつもりだったのではないだろうか。だが一人が抜け駆けし、すり替えた米を売りさばいた挙句捕まった。それで、関わった者を葬ったほうがいい、となったのだろう。お仲間が捕まった早々不審死を遂げたと知れば、臆病風に吹かれて此度のことをどこかで言うかもしれない。


「で? どんな奴だったんだ」


「どんなって……。顔は隠してたからわからねぇよ!」


「そんな怪しい奴の言うことなんて聞くんじゃねぇよ!」


「こんな仕事を持ってくるのなんざ、怪しい奴に決まってんだよ! そんなことでいちいちビビッてられるかい」


 やけくそ気味に、彦佐が叫ぶ。ちょっと、重実は彦佐を見直した。変なところで肝が据わっている。


「……へぇ。お前、ちょっと気に入ったぜ」


 にやりと笑うと、重実は彦佐の腕を掴んだ。


「立て。放っておこうと思ったがな、一緒に連れて行くことにした」


「えっ……。ちょ、あんた、もしかして岡っ引きか」


「馬鹿。浪人が岡っ引きなんかになるかい」


「じゃあ何でおれを引っ立てるんだ」


「さっき襲われただろう。このままだったら遅かれ早かれお前は奴に斬られるぞ。そうなってもいいなら放してやるが」


 抵抗していた彦佐の力が、ふ、と抜けた。大人しくついてくる。例の米俵をすり替えた張本人だと言えば伊勢が怒り狂いそうだが、とりあえずは生き証人だ。なんとかなろう、と重実はそのまま彦佐を藩邸に連れ帰った。


「全く、何を考えておいでです! そのような者をこの藩邸内に連れ帰るなど、正気の沙汰とも思えませぬ。今すぐ奉行所に引っ立てましょう」


 思った通り、事の次第を聞いた途端、伊勢は怒りを露わに片膝を立てる。


「まぁ待て。大体奉行所にも奴らの手の者がいるんだから、公正な裁きなんざ期待できねぇぞ。こいつも明朝にゃお陀仏だ」


 宥める重実の言葉に、小さくなっていた彦佐が青ざめてさらに小さくなった。


「だったらわたくしが今ここで裁いて差し上げます!」


 すらりと腰の刀を抜く。


「お前、どういったいきさつで下り米を奪ったのです。誰の指示です? 報酬はどこから出ているのですか」


 切っ先を突き付け、伊勢が無表情に彦佐を尋問する。女子ということを忘れそうだ。


「こ、この兄さんにも言ったが、おれはほんとに何も知らねぇ。盗んだのが下り米ってのも知らなかったんだ」


「嘘仰い。このご時世に、あんなに沢山の米が運ばれてくれば、民のための下り米だということぐらいわかるでしょう」


「おれみてぇな貧乏人は、米の流通なんざ知らねぇんだよ。米問屋がどこから米を調達してるかなんて、気にしてる余裕はねぇんだよ」


 ちょっと、伊勢が目を見開いた。伊勢はそれなりの家の娘だし、周りの者も城勤めの御家人だ。町人でも本当に貧しい者というのは米を買うのもままならない。そういう状況を知らなかった。


「そ、そうだとしても! 荷揚げされた米俵を砂袋にすり替えるなど、やってはいけないことぐらいわかるでしょう! 誰の指示なのです!」


 少し湧いた後ろめたさを振り切るように、伊勢が声を荒げた。


「だ、だから、それも言ったよ! 誰かなんかわからねぇ! どっかの商家に仕えてる奴じゃねぇのか」


 喚くように言っていた彦佐が、ふと真顔になった。そして首を傾げる。


「……いや、そんなわけねぇか。お侍みてぇだったし」


「侍だって、浪人だったら商人の用心棒とかやるぜ」


 旅の中で、そういう仕事を請け負ったこともある。重実が言うが、彦佐は、うーん、と唸った。


「いやぁ……。そんな感じじゃなかったな。小奇麗だったし。浪人だったら顔隠す必要もないだろ」


「ふーん。てことは、向こうさんの誰かか」


 それが誰かわかれば話は早いのだが。


「顔を隠していたとなると、相当な大物でしょうか」


 伊勢は田沢の側近辺りを思い浮かべたのだろうが、まさかそんな者が出張ってくるはずはない。


「いや、そうとも限らん。顔に特徴があるか、面を晒したら後々足がつきやすいか、だ。多分後者だな」


 重実が言うと、束の間考えた伊勢が、あっと顔を上げた。


「大場!」


 大場は北山の下の同心だ。商家を回って袖の下をせしめるのが仕事のような男である。その袖の下をせっせと北山に送ることで、北山からあらゆる恩恵をうけている。いわば腹心の部下だ。


「そう。変に面晒しちゃ、町で会ったりしたときに身分がすぐに割れる」


 同心は町を巡回する。一番動きやすいが、面も割れやすい。髷も格好も一目でわかるので、顔を晒すわけにはいかないのだ。


「ま、多分そうだろう、というところだがな」


「でもそうすると、浪人がこ奴を襲ったのもわかります。北山は例の鳥居を飼ってますから」


「やはり、あれが鳥居か」


 彦佐を斬ろうとした侍。あの者の放つ殺気は尋常ではなかった。思い出しただけで僅かに粟肌立つ。


「鳥居と対峙して、よく無事でいられたものです」


「……ま、誰かが通りかかったから助かったようなもんだがな」


 そう言って、あれ、と重実は考えた。そういえば、提灯の灯が見えたはずだが、その後誰かが近付いてきたわけでもなかった。とすると、あれは……。


『たわけが。狐火に決まっておろうが』


 いきなり声がし、襖の隙間からするりと狐が入ってくる。このような町人と同じ部屋に艶姫を置いておくのは断固として伊勢が許さず、艶姫は別室にいるのだが、そこに狐がついていたのだ。一応の護衛である。


『全く一日中女子についておらぬといかんなど、気が滅入ってしょうがないわ』


「おいこら。何を勝手に戻ってきてる」


 重実が狐に文句を言ったとき、すらりと襖が開いて艶姫が姿を現した。


「だってずっと一人で籠ってるなんて、つまらないんですもの」


 ぶぅ、と膨れて、艶姫が言う。伊勢が、ぎらりと重実を睨んだ。先の重実の言葉は、艶姫に放たれたのだと理解されたらしい。狐は、しれっと重実の膝の上に上がって丸まった。


『何とのぅおぬしの気が昂ったのがわかったんで、狐火を飛ばしたのじゃ』


「そうかい。ま、ちょっと残念だったけど、お陰で助かったぜ」


 膝の上の狐に手を置いて言う重実に、艶姫はきょとんとした。


「あら、わたくし別に何もしておりませんわ。けどお役に立てたのならよかった」


 にこりと笑う。何のことだかわからないが、とりあえず重実も曖昧に微笑んだ。周りを気にせず狐と喋ると、よくあることだ。伊勢が、ささっと艶姫ににじり寄った。


「姫様、このようなところにお出ましになることはありません。向こうのお部屋でお待ちください」


 下手に身分を明かすわけにはいかない。小声で言うが、艶姫は頑として動かない。


「嫌よ。一人は寂しいわ」


「そんじゃあ、ほれ」


 言いつつ、ぽん、と重実が膝の上の狐を叩いた。が、それに艶姫は、え、と赤くなり、伊勢は鬼の形相になった。


「んなっ! 何ということを! この不埒者が!!」


 いきなり持っていた刀を、ぶん、と重実に向かって振り回す。ぎょっとした顔で、重実は辛くもその刃を避けた。


「なな、何だよ! 姫さんが一人じゃ寂しいっつぅから」


「だからと言って、何故あなたが出張るのです! まして膝に来いだなんて、一体何様のつもりですかっ!」


「え、な、何のことだよ」


 重実は膝の上にいた狐に、再び艶姫の傍に行け、と言ったつもりだった。だが狐は他の者には見えない。まるで重実が、自分の膝を示したように見えたわけだ。


『馬鹿が』


 ごろごろと畳を転がって逃げる重実から素早く離れ、狐が呟いた。


『わしは他の者には見えぬということを、いい加減に覚えたらどうじゃ。ただの変態じゃぞ』


 呑気にがしがしと後ろ脚で耳の後ろを掻きながら、逃げ回る重実を見る。とはいえここで伊勢に刺されたら、狐とて痛い。やれやれ、とおもむろに身体を起こすと、狐は、とん、と床を蹴って、荒れ狂う伊勢の背を駆け上がった。肩の上で、思い切り尻尾で伊勢の顔を撫でまくる。


「えっ? ひゃあぁっ!」


 初めて聞くような情けない声を出して、伊勢が刀を放り投げ、己の顔を押さえる。いきなり顔を、ふさふさの刷毛のようなもので撫でまわされた感じがしたのだ。驚かないはずがない。


「な、何っ?」


 ぺたんとその場にへたり込む。同時に狐も床に降り立ち、ててて、と重実の元に駆け戻った。


「ふ~、やれやれ。助かったぜ。ったく、何だってんだよ」


 むくりと上体を起こし、重実はがしがしと頭を掻いた。


『お前はほんと、わしを普通に扱うよな。他の者には見えないっつーに、何度言っても忘れよる。その頭に詰まっておるのは米ぬかか?』


「失礼な。わかっとるわい、それぐらい」  


『わかっとらん。言うた傍からすぐそれじゃ。ほれ、皆が怪訝な顔で見ておるぞ』


 肩の上で呆れたように言う狐に、ん、と顔を上げれば、伊勢と艶姫、彦佐までが妙なものを見る目で見ている。


「あー……っと。ああ、えっと、そういう意味じゃなくてだな、うん、一人が寂しいってんなら、もうしょうがねぇからその衝立の向こうにいなよ。確かにほれ、うっかり誰かが忍び込むってこともあるかもだしな」


 意味なくうんうんと頷きながら、重実は艶姫を、部屋の隅にあった衝立の向こう側へと追いやった。ついでに狐も。


『お前はまた、わしにこの女子の子守りを押し付ける気かっ』


 肉球で、追いやる重実の手をぎゅむ~っと押し戻しながら、狐が牙を剥く。だが力は重実のほうが強い。


「どうせ、これといったこともしないだろ」


 狐に言った途端、艶姫が傷付いた顔になった。全く姿が見えないというのはややこしい。今のは狐に言ったのであって、姫に言ったわけではないが、面倒臭くなり、そのまま重実は元の位置に戻った。


「全くあなた様は、油断も隙もない。姫様を馴れ馴れしく膝に招いたかと思えば、いきなり突き放してみたり、わけがわかりませんが。でもそれでよく、欲がないとか言えたものです」


 ようやく落ち着いた伊勢が、姿勢を正して怒ったように言った。なるほど、狐が見えない者からすると、一連の行動はそういうことになるのか、と今さらながら理解し、重実は密かに額に手を当てた。


「はは。男は欲の生き物だぜ。ねぇちゃん、そんなこと言われて丸め込まれたのかい」


 何となく緊張のほぐれた彦佐が、笑いながら下世話な口を挟む。たちまち伊勢の目が吊り上がった。目にも留まらぬ速さで落とした刀を拾い、びゅん、と一閃させて彦佐の首でぴたりと止める。


「黙れ。貴様は私にそんな口をきける立場と思うのか」


 笑った口のまま、彦佐は固まった。先ほどまで刀は突き付けられていただけだが、今、刃は首にあてがわれている。そのまま横に滑らせれば、首の血管ちくだを切り裂ける位置だ。凄い勢いで振った刀を首筋ぎりぎりで止める辺り、伊勢の腕は相当なものだ。


『おお怖や怖や。ほんに、とんだじゃじゃ馬よ』


 聞こえないことをいいことに、衝立の向こうから狐が茶々を入れる。別に衝立から出られないわけでもあるまいに、何だかんだで結局重実の言う通り、艶姫の傍に留まっている辺りが狐の可愛いところである。


「久世様。この者、どうするおつもりです」


 刀を彦佐の首筋に置いたまま、伊勢が聞く。聞くことは聞いたし、解き放ってもいいといえばいいのだが。


「こ、このまま放り出されちゃ、殺されるかもしれねぇ。匿ってくれるつもりじゃねぇのか?」


 ふるふると震えながら、彦佐が口を開いた。川っぺりで襲い掛かった侍が、米俵のすり替えに関係しているとわかり、身の危険を感じたようだ。


「う~ん、まぁ確かにお前は大事な証人だと思ったんだが。けど敵さんの顔も見てねぇしなぁ」


 決定的な証拠はない。そもそも顔を見ていれば、米俵を舟宿に運び込んだ後すぐに斬られていただろうが。


「ま、待ってくれよ。顔は見てねぇけど、声は聴いたぜ」


 はた、と気付いたように言う。


「そうか。こちとら目星はついた。大場の声を確認すればいい」


 ただ声を聴いただけだったら心許ないが、人物の目星がついていればその者の声を確認すればいいだけだ。


「でもお前は向こうさんに顔を見られてる。奴の前に出るのは危険かもしれねぇぜ」


 北山の命で鳥居が関わった者を殺しているなら、わざわざ姿を晒せばすぐに手を打ってくるかもしれない。だが彦佐は、肚を決めたように頷いた。


「いいぜ。おれがそいつの声を確認すれば、そいつはお縄だろう? そうなれば狙われる恐れもなくなる」


 重実たちからすれば、大場がお縄になっただけでは駄目なのだ。そこからさらに北山などの上に繋げないといけないので、確認後すぐに大場捕縛とはいかないのだが。


「まぁ確かに重要な証拠にはなるな」


 同心が回る界隈は決まっている。さらに袖の下を要求するような輩は、立ち寄るところも決まってくるものだ。見回り中の大場を炙り出すのは、そう難しくはないだろう。


「近く行われるだろう米滋との会合に備えて、野郎の顔を知っておいたほうがいいだろうな」


「では」


 頷き、ようやく伊勢は刀を下ろした。

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