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さらさら  作者: 藤堂左近
13/14

十二

「あ~、ずっと前屈みになってると傷が痛ぇわ」


 安芸津の屋敷に帰ってくるなり、重実は羽織袴を放り出す。


『けどもう普通に動けるほどには回復したかの。臓物をぶちまける恐れはもうないか?』


「う~ん、今鳥居とやり合ったら、傷が開くかもなぁ」


『まぁ臓物をぶちまけてやれば、斬り合わずに追っ払えるかもじゃ。ビビるじゃろうしの』


「後始末が大変じゃねぇか」


 ぶつぶつ言っていると、すらりと障子が開いた。伊勢が、白布と着替えを持って入ってくる。


「布を取り換えましょう」


「あ、じゃあちょっくら水浴びてくらぁ」


 小袖を脱ぎ去り、重実は奥の障子を開けると、ひょいと庭に降りた。その先にある井戸から水を汲み、頭からかぶる。


「ふぃ。さっぱりした」


 身体に巻いていたさらしを取りながら部屋に戻ると、伊勢が妙な感じに顔を背けている。


『はねっ返りも男の裸にゃ弱いのか』


 にやにやと狐が言う。重実はちらりと伊勢を見、その膝先から着替えを取った。


「でも、あんまりまじまじ見られたら、他にも目が行っちまう」


 重実の身体には、結構な傷がある。今までの旅で、稀に死ぬほどの怪我を負ってきた。死ぬほどの怪我ということは、傷は相当深いものだ。痕も残ってしまう。もっとも初めに鳥居に斬られた傷の手当てをされているので、見られているかもしれないが。


「き、傷の具合は如何です」


 重実が小袖を羽織ったので安心し、伊勢が顔を戻した。


「ま、それなりに」


 答えになってない答えを返し、重実は伊勢に背を向けたまま、手早く腹に布を巻いた。もう傷をしっかり押さえなくても大丈夫なので、一人でも巻ける。


「うん、この分じゃ二日もすりゃ、もう痛みもないだろ」


「傷が癒えれば、すぐに出ていくのですか?」


「傷が治れば、ここに厄介になる理由もねぇ」


「どこに行かれるのです?」


「さぁ~? 今までも、別に行先は決めてねぇし」


『決めたところで辿り着けぬし』


「違いねぇ」


 狐と共に、ははは、と笑う。ちょっと訝しげな顔で重実を見た後、伊勢は、ふぅ、と息をついた。


「連れて行って欲しい、と言っても、無理なのでしょうね」


 諦めたように言う。重実はその場に腰を下ろし、正面から伊勢を見た。


「何でだい? そんなに武者修行に出たいのか?」


「……それも魅力的ではありますが……。でも所詮、女子の身では知れています」


「そうだなぁ。それ以前に、自由気ままに諸国を渡り歩くこと自体が難しいし。体力も違うしな。そもそもそんなに強くなる必要もないだろ。今の状態でも十分強いよ。城の剣術指南役なんだろ」


「指南役といっても奥向きですから、女中らですし。それこそ知れてますよ」


「……まぁ確かに、伊勢の腕を存分に発揮できるところではないだろうな」


 少し、重実は納得した。相当な遣い手でありながら、その腕を発揮する場がない。今回のような姫君の護衛など、滅多にあることではない。まして実際に剣客と斬り合うなど、まずないことだ。


「でも言ってしまえば、伊勢のその腕は発揮されないほうがいいんだぜ。折角綺麗な女子なんだから」


「え」


 伊勢が驚いた顔になり、見る間に真っ赤になる。


「あれ? 安芸津様とか、言わないか?」


 意外な反応に聞いてみると、とんでもない、という風に、伊勢はぶんぶんと首を振った。


「腕のほどは褒めてくださいますけど、そんな、外見のことなど」


『そうじゃったかのぅ? 言うておらんかったか? おぬしが気にしておらぬ故、耳に入らんかっただけではないか?』


 狐がずいずいと伊勢に迫りながら言う。


『もしそうなら、安芸津も可哀想な男よの。おぬし、安芸津には全く興味なしか?』


 鼻先まで近付いて言うが、当然伊勢には聞こえない。ひたすら赤くなっている。


「相手がいないで物足りねぇってんなら、安芸津様に頼めばいいじゃねぇか」


「わ、私はあなたと一緒に行きたい、と言っているのです」


 いきなり伊勢が、真面目な顔になって、きっぱりと言った。


「何で?」


 間髪入れずに重実が返す。すると伊勢は、少し困った顔になった。


「……あなたに興味を持った、というのでしょうか。あなたがもっとゆるりとここにおられるのであればいいのですけど、このまま別れてしまうのは惜しいというか。もっとあなたを知りたいのです」


『この男に人としての深みなどないぞ?』


「それに、そんなに深く知られちゃ困る」


 うむ、と重実が頷く。


「何故ですか? 気になったお人のことは、知りたいと思うのが普通でしょう?」


「知ったところでいいことばかりじゃねぇ。知らないほうがいいことだってあるぜ」


「そうでしょうか? たとえどんなことだって、あなたのことなら知りたいと思います」


「……おれが化け物でもか」


 ぽつりと言い、重実は、ひょいと狐を抱え上げた。そのまま、わしわしと伊勢に押し付ける。


『のわっ! 何をするんじゃっ!』


「ひゃっ!」


 じたばたと暴れる狐に、伊勢が驚いた声を上げる。狐の姿は見えていないが、何かもふもふのものを押し付けられ、さらにそれが動いていたのがわかったのだろう。


「何か感じただろう?」


 何かを掴んでいた手を放すように、ぱ、と重実が手を開いた。何かがぼてっと伊勢の膝に落ち、それはすぐに膝を蹴ってどこかに行った。


『全く、いきなり何じゃ。伊勢がはねっ返りだからいいようなものの、わしのふさふさの毛皮に紅でもついたらどうするんじゃっ』


 狐はぶちぶち言いながら、重実の背後に回る。


「い、今のは……?」


 何かが落ちた感触のある膝をぽんぽんと叩きながら、伊勢が驚いた顔で言った。


「おれに憑いてる狐さね」


 軽く言う重実を、伊勢は少し眉根に皺を寄せて見つめた。何でもかんでも鬼のせいにしていた昔とは違う。医学だって進んでいるのだ。狐憑き、という言葉は生きているが、実際憑いた者など見たことはない。しかも重実は、妙な行動を取るわけではないのだ。独り言は多いが。


「狐憑きなど、本当にあると思っているのですか?」


「……ま、よく聞く狐憑きとは違うだろうよ。常人離れした脚力があるわけでもねぇし、夜中に行燈の油を舐めるわけでもねぇ」


『それは猫又じゃろがっ! わしをそんなものと一緒にするな』


 きゃんきゃんと言う狐に、そうだっけ、と首を傾げ、重実は伊勢に目を戻した。


「あんただって見ただろう」


 ぽん、と己の腹を叩く。


「何も憑いてねぇ普通の人じゃ、こんな傷食らったらお陀仏だぜ」


「そ、それは……。見た目よりも大したことなかったのかと」


「んなことねぇぜ。下手したら臓物をご披露するところだったしな」


「かすり傷だって言ったじゃないですか」


「どんな傷だって、死ななきゃかすり傷だ」


『それはおぬしだけじゃ』


 狐の突っ込みに、また重実は首を傾げた。最早痛みには慣れてしまったので、かすり傷と重傷の区別が曖昧だ。慣れるといっても、やはり痛いが。


「人ではないのですか?」


 伊勢が依然、疑わしそうな目を向ける。このようなことをいきなり言われても信じられないだろう。姿が人と違うわけでもない。斬られたら普通に血だって出るのだ。確かに鳥居に斬られた傷は、かなり深そうだった。だが死ぬかどうかはその者の体力や運もあるのだ。心の臓を貫かれたり、首を落とされたりといった明らかなる致命傷を見ない限り、死なない、と言われたって信じられるものではない。


「人でない……わけではないんかな」


 そこのところはよくわからない。死なないだけで、他は何ら変わったところはない。傷の治りが早いぐらいか。


「死なねぇっても、老いたら死ぬんかな。え、それでも死なねぇのは辛いな」


『そうじゃな。骨ばかりになって足腰立たなくなっても生き続けるのは最早物の怪よな』


「元気であればいいけどな……」


 うーむ、と腕組みして考え込む重実を、相変わらずまじまじと見ていた伊勢は、気付いたように周りに目をやった。


「もしかして、久世様のその独り言は、憑いているという狐と喋っているのですか」


「お、ようやくわかったかい」


 常にぶつぶつ独り言を呟いている変人ではないのだ、とわかったのか、安心したようだ。大きく息をつく。


「安心しました。久世様も、普通の人だったのですね」


「いや、だから普通じゃねぇんだって」


 伊勢の言葉をばさりと斬り、重実は着物の襟を掴むと、ぐい、と少し開いた。顎を上げ、喉元を晒す。次いでくるりと後ろを向き、今度は俯いてうなじを示す。


「酷ぇ傷があるだろ?」


「古傷のようですけど……」


 じ、と傷跡を見ながら言っていた伊勢が、はっとしたように身体を強張らせた。傷跡はそうでかくないが、これは喉元からうなじに突き抜けた痕ではないか。傷は身体のほぼ中央だ。でかくはないとはいえ、針ほどの小ささでもない。見たところ、槍ぐらいが突き刺さったのではないだろうか。


「まさか」


 あり得ない、と伊勢は頭を振る。槍が喉元からうなじに突き抜けて、生きていられるわけはない。


「だから、死なねぇんだ」


 襟を直しながら、重実が言う。


「今んとこ、五体のどれかを失うほどの傷は受けたことがねぇから、何をしても死なねぇのかはわからんけどな。首を落とされたり、頭を潰されたら生きていられるかどうか」


『てことは、おぬしの胆は頭っつーこったな』


「そうだな。でも頭割られたぐらいじゃ、多分大丈夫だぜ。潰されない限りは。う~ん、そう考えると、首を落とされるのが一番綺麗な死に方か。あとはぐちゃみそにならにゃ死ねんかも」


『おぬしがぐちゃみそになったら、わしもぐちゃみそになるんかいな。嫌じゃのぅ、それは』


「おれだって嫌だ」


 重実と狐の会話を、伊勢がじっと見る。今まではこのような場面、いかにも妙なものを見る目でしか見ていなかったが、なるほど、確かに何かと話している。伊勢は、その何かがいるであろう床を、まじまじと見た。


「そこに何かがいる、ということですか」


「狐」


 ぽん、と重実が、自分の横を叩いた。通常だと床を叩くことになるはずの手は、床から若干上がった空中で止まっている。伊勢は、そろそろとそこに手を伸ばした。と、もふ、とした何かに触れる。


「ひゃっ!」


 先と同じ叫び声を上げ、伊勢は手を引っ込めた。


『失礼な。化け物を触ったような反応をしおって』


「お前は自分が化け物だという自覚がないのか」


『わしは格式高い妖狐ぞ』


「格式ある化け物なだけだ」


 ぶつぶつと言い合う重実を、またもまじまじと見、伊勢は己の手を眺めた。確かに何かに触れた。もふもふの……。


「……狐……?」


「そう」


 こくりと頷く重実に、伊勢は再び、そろそろと手を伸ばす。今度は指先が何かに触れたところでも引っ込めず、そのままゆるゆるともふもふの輪郭をなぞっていった。


『触るなら触るで、もうちょっと、しかと触ってくれねば、返って気持ち悪いわ』


 手の平全体で探るというより、軽く指先でなぞっている。伊勢からすると、自分の触っているものが何かわからないし、狐だと言われても、どこが顔かもわからないのだ。慎重にならざるを得ない。


『そんなに警戒せんでも、女子なぞ取って食いはせんわ』


 言うなり狐は、むくりと立ち上がり、すたすたと伊勢に近付くと、のし、と膝に上がった。そしてくるりと丸くなる。


「えっ! ……えっと、こ、これが?」


 いきなり手の先から気配が消え、膝の上にもふもふが移動した。やはり見えないが、感じる動きから察すれば、今どういう格好で膝の上にいるのかわかる。頭であろうところに、そろ、と手を置いてみた。


「何だよ、女子は嫌いじゃなかったのか」


『やかましい女子は好かぬ。負の気の強すぎる女子も好かぬがな。こ奴には当て嵌まらぬ』


「膝の上で丸まりながら、そんな偉そうな口を叩かれても」


 重実が呆れたように言いながら、視線を伊勢に戻した。


「わかったかい? それが、おれに憑いてるってこった」


「狐だと仰いましたけど、何故見えないのです?」


 何となく膝の上のもふもふを触りながら、伊勢が聞いたことに、重実はぽかんとした。そういえば、何故見えないのだろう。というか、初めから重実には普通に見えていたので、狐が見えないという実感が、実はないのだ。


「……お化けだからじゃねぇか?」


『お化けとは何じゃっ! 妖狐だと言うとろーが!』


「あ、なるほど。妖怪だから見えねぇんだ」


 ぽん、と手を叩く重実に、伊勢は首を傾げる。


「そうでしょうか? むしろ見えない妖怪っています? 天狗も猫又も、皆ちゃんと姿は見えるんじゃないでしょうか」


「そういやそうだな。おい狐、何でお前はおれ以外にゃ姿が見えねぇんだ?」


『高位の妖狐は、そんなおいそれと姿を現すものではない』


 ふん、と偉そうに顎を上げ、狐が鼻息荒く言う。偉そうにしたところで、伊勢の膝の上に、猫のように丸まったままなのだが。


「つか、お前もおれと同じように、死にかけのときに何かやらかしてそんな風になっちまったんじゃねぇのか?」


 十数年前に死にかけの少年重実が見つけた狐も死にかけだった。狐は死にかけの少年重実の魂を食らったお陰で命拾いし、結果重実も命拾いした。そしてそれから重実は死ななくなった。それは狐も同じだ。重実と狐は、最早一心同体と言える。重実が怪我をすれば、狐も痛がるのだ。


「おれはあのとき死んだんかな」


 魂を食われたのだ。考えてみれば、生きているほうがおかしい。


「久世様は生きてますよ」


 不意に伊勢が、口を開いた。


「喉を貫かれても死なねぇのに?」


 重実が言うと、伊勢は軽く肩を竦めた。


「いいじゃないですか。死なないとわかっていれば、斬り合いでも緊張はしないでしょう?」


「そんなことはねぇ。斬られたら普通に痛いんだぜ」


 どんな傷を負っても死なない、ということは、いつまでたっても苦痛から逃れられないということにもなる。


「ま、だからこそ下手に傷を負わないよう努力したのさ。傷を負わないためには、強くなきゃならん」


「なるほど! 普通は死なないためですけど、久世様のほうが切実ですものね」


 合点がいったように、伊勢がぽんと手を打った。重実の秘密にここまで理解を示す者も珍しい。もっともここまで詳しく己のことを話したこともないが。親兄弟でさえ、死なない重実を気味悪がったのに。


「まぁ普通の人とは根本が違うわけだから、立ち合い時も普通の人よりは緊張しねぇかもだけどな」


「でもやはり、死なないとわかっていれば、こちらも安心です」


「もうそんな心配、することもねぇさ」


 自分の秘密を理解してくれたとはいえ、やはり重実はここに留まるわけにはいかない。皆が皆、理解を示すわけではないし、そもそもここでの知り合いは、皆きちんとした城勤めの者たちだ。そのような人々に半妖とも言える重実が長く関わると、ろくなことにならないのだ。


「……やはり、ここには留まってくれないのですか?」


 明らかに気落ちした様子で、伊勢が言う。ちらりと膝の上の狐が顔を上げた。


「長く留まれば、おれの変さに気付く奴が増える。狐憑きなんざ、とっ捕まるか迫害されるかのどっちかだぜ。あんたや安芸津様が気付いて庇ってくれても、噂が広まれば捨て置けなくなる。ひいては小野様や艶姫も、おれとの関わりで迷惑がかかる。そういうごたごたはご免だ」


 自分や安芸津だけならともかく、その上にまで累が及ぶと思うと、さすがに伊勢も、これ以上引き留められない。


「だから、私が国を出る、と言うのです。それならいいでしょう?」


「よくねぇよ。おれは目的があるわけでもなく、ただ諸国を渡り歩いているだけ。根無し草であるべき身体だからだ。だがあんたは違う。国を捨てなきゃならん理由もねぇ」


 重実が普通の人間で、どこぞの国から流れて来ただけの浪人だったら、伊勢を連れて旅に出て、適当なところで腰を据えればいい。だが普通でないので、連れ合いがいると困るのだ。重実の旅は腰を落ち着けないための旅である。一生続くのだ。同じような事情がある者でないと、とても付き合いきれるものではない。


「路銀だって別に気にしねぇし、泊まるところだって宿とは限らねぇ。食うもんも満足にあるとも限らねぇし、そんなむちゃくちゃな旅、女子は耐えられんだろ」


 旅芸人などの娘ならともかく、ずっとちゃんとした屋敷で育った、れっきとした武家娘の伊勢など、絶対に無理だ。


『おぬしのためでもあるのじゃぞ。このような男のために、一生を棒に振ることはないわい』


「そうそう、狐の言う通り。……だが」


 頷きながらも、重実はじろりと狐に目を当てた。


「お前に言われると腹が立つ!」


 言うなり手を伸ばして、狐の首根っこを掴み、伊勢の膝からむしり取る。


『いたたたた!! わしの綺麗な毛が抜けるじゃろがっ!』


「やかましい! 調子に乗っていつまでも伊勢の膝に陣取りやがって!」


 いきなりぎゃーすか騒ぎ出した重実に、伊勢が目を丸くする。同時に膝の上のもふもふの感触がなくなり、重実は片手を掲げているので、そこに先のもふもふがいる……のだろう。説明されたので、それはわかるのだが、如何せん見えないので、やはり妙な光景だ。


「そういえばその狐って、人語を話すのですか?」


 ふと思いついて、伊勢が言った。


「ああ。そういや不思議にも思わんかったが、こいつが普通に喋るから、おれも退屈しねぇで済むのかも」


『そうじゃぞ! 感謝せい』


「おれのために人語を話せるようになったわけじゃねぇだろ!」


 きゃんきゃんと重実が吠える。狐は依然、ぶらんとぶら下がったままだ。


「何て言ったんです?」


「へ?」


「さっき、狐の言う通りって言ったじゃないですか。そう言われても、私には狐が何て言ったのかわからないですから」


『こんな男のことなど、早々に忘れてしまえ、と言ったんじゃ』


「その通りだがお前が言うな!」


 掲げた手に向かって吠える重実を、伊勢は黙って見つめる。先ほどまでとは違い、少し真剣な表情だ。


「あー……。うん、だからだな……」


 空気を読み、ごほんと咳払いしつつ、重実は掲げていた手を下ろした。床に降りた狐が、その場できょろきょろと重実と伊勢を見る。


「おれについてきたら、一生を棒に振ることになるってよ」


『そうそう。こ奴よりも、安芸津のほうが余程いいぞ』


「そうだ。安芸津様がいるじゃねぇか」


 思い出し、重実は手を打った。


「強くなりたいってんなら、何も武者修行に出なくても安芸津様に稽古をつけて貰えばいいんだし、うん、何から何まで揃ってるじゃねぇか。そうしなよ」


 瞬間、伊勢は何か言おうと口を開けた。が、すぐにきゅ、と唇を噛む。


「久世様は、私が初めに言ったことをお忘れですか?」


「ん?」


「私は久世様に興味があるのです。安芸津様ではありません」


 おっと、と狐が、何やら視線を廊下に投げる。もっとも襖は閉まっているので、そっちに目をやっただけだが。


「だから。おれのことは、大方わかっただろ。男としてどうのってんなら、無駄なことだぜ。おれにゃ前にも言ったが欲がねぇ。女子とどうこう、てのもない」


 もちろん男とも、と付け足しておく。そっちの趣味だと思われても困る。


「お坊様だって無理なのに、欲がないなんてあり得るのですか?」


 どうやら伊勢が言いたかったのはこっちのようだ。相手に興味がある、というのは恋慕の情だ。伊勢は遠回しにそのことを訴えていたわけだが。あっさりと断られたものの、人である以上『欲』がないなど信じられない。訝しげな目を向ける。


「さぁ。詳しいことはわからんが、もしかすると生きてねぇのかもな。だから欲がないのかも。腹は減るけど多分食わなくても死なねぇし。そう考えると、欲自体がなくなっていくのも頷けるだろ?」


「それは……そうかもしれませんね」


 色欲はどうだかわからないが、直接生死に関わる食欲や睡眠を取らなくても死なないのなら、確かに欲自体がなくなっても不思議ではないかもしれない。


「欲がなくなれば、心が動くこともないのでしょうか」


 下を向いたまま、伊勢がぽつりとこぼした。


「そうかもな。言ってしまえば欲ってのは、生き物の行動の根本だ。何かを強く欲することもないし、言ってみればおれは風とか水みたいなもんだよ。ただそこにあって流れていくだけ」


『わしは美味い油揚げが食いたいと思うがなぁ』


「お前は元々妖狐だから、おれとは違うんだろうよ」


 うーん、と伸びをする重実に小さく息をつくと、伊勢は腰を上げた。途端に、がたた、と音がして襖の向こうから安芸津が姿を現す。


「や、やぁやぁ。久世殿、具合はどうだ?」


 どこかぎこちなく、明るい笑みを浮かべて部屋に入る安芸津の横を、伊勢が一礼してすり抜けた。


「おや伊勢殿は、もうお帰りか?」


「久世様には、すでに手当ては必要ありませんので」


 短く言い、伊勢は振り返りもせずに廊下を去っていく。その後ろ姿を、安芸津は複雑な表情で見送った。


『何じゃ何じゃ。こ奴、先ほどより襖の陰におったくせに』


 狐が安芸津の足元を回りながら言う。


『出歯亀か? いい趣味じゃのぅ』


「おいおい、単に入るに入れなかったんだろうよ」


 話の内容は、安芸津にとっても気になることだったに違いない。おそらく伊勢を想っている安芸津だ。その伊勢が他の男に対して告白めいたことを口にしていれば気になるのは当然だし、変にその場に姿を現しても伊勢が気まずくなるだけだ。結果的に立ち聞きする羽目になってしまったが、故意ではないだろう。


「あれ。てことは、安芸津様もおれが不死身だって知ったのか」


「狐憑きとかいうやつか?」


 重実の言葉に、安芸津は少し馬鹿にしたような目を向けた。


「まぁおぬしのその強靭さは、ちょっと普通とは思えんが。それこそ諸国を旅している者であれば自然とあらゆる耐性もつくし、身体も強くなろう。そういう普通と少し違う者を狐憑きというのだ」


 ふ、と息をつき、安芸津は腰を下ろした。少し目を見開いて、重実は安芸津を見る。


「安芸津様は、おれが気持ち悪くねぇんですかい」


「気持ち悪い? 身体が丈夫なのは剣客として羨ましいことだぞ。独り言だって、長く一人で旅を続けていれば多くなってしまうのだろう。おぬしの狐憑きは、全て説明のつくことぞ。狐憑きというほどおかしなことなどない」


 どうやら安芸津は、先の話の初めから聞いていたわけではないようだ。具体的に、伊勢が狐を触ったところなどの後に来たのだろう。


「安芸津様は、いい人でやんすねぇ」


 思わず町人口調になる重実の横で、狐も呆れたような目で安芸津を見た。


「散々狐憑きと忌み嫌われてきたおれのことを、そんな風に見てくださる」


「おぬし、もしかして旅を続けるのは土地の人間がそういう目で見るからか」


『そういう目も何も、真実じゃから仕方あるまい』


 大体狐が憑いたからって何だというのじゃ、と狐がぶちぶち文句を垂れる。


「だったら気にせずここにおってもいいのだぞ。そなたの腕なら仕官せずとも仕事はあろう」


「いや、それは遠慮します。伊勢にも言いましたがね、安芸津様が気にしなくても、皆が皆そうではないもんなんです。おれが関わった艶姫にまで妙な噂が立ったら困るし、安芸津様の進退にも影響しかねません。それにおれ自身、一所ひとところに留まれない性分なんでさ」


 最後は軽く言う。己のことはともかく、やはり安芸津も艶姫のことを出されるとそれ以上何も言えなくなる。が、躊躇った後、再び口を開く。


「しかし……望めば仕官も叶いそうではないか。……伊勢殿も、それを望んでおろう」


 若干言いにくそうに、安芸津が言った。狐が、興味をそそられたように顎を上げる。


「安芸津様は、伊勢を好いてらっしゃるんで?」


 ずばりと言ったことに、一瞬安芸津が止まった。そしてすぐに赤くなる。


「な、何を申す。今はおぬしの話をしておるのだ。そ、それに伊勢殿は、おぬしに惹かれておるようだし」


「伊勢には安芸津様のほうがいいと思います」


 明らかに狼狽える安芸津とは正反対に、重実はきっぱりと言った。安芸津はまた動きを止め、しばしの間、重実を見つめた。


「おぬしは、伊勢殿を何とも思わぬのか?」


 小さく問う。眉間に若干の皺が寄った重実に、安芸津はずいっと詰め寄った。


「おぬしも知っての通り、剣術ではそこらの男に引けは取らぬ。それだけではなく頭も良いのだ。この前のような斬り合いの場でも怯えることなく冷静に立ち向かうし、おぬしのように重傷を負った者がいても的確に指示を出して手当ても厭わない。その上あの器量だ。あのような女子、おらぬと思わぬか?」


『……この男、余程伊勢を好いておるようじゃの』


 ぐいぐいと乗り出して語る安芸津に、狐がまたも呆れたように言う。


「そう思われるのなら、安芸津様が伊勢の傍におればいい」


 重実が言うと、途端に安芸津の勢いはしぼんでしまう。色恋は得意ではないようだ。


「い、今までは単に伊勢殿の気持ちがわからぬ故、迂闊なこともできなかったのだが。……伊勢殿は、おぬしを好いておるとわかったではないか」


「まぁ腕っ節の強い奴でないと嫌だというようなことは聞いたような気がしますが。それなら安芸津様でもいいわけですよ」


「それだけなわけはないだろう」


 重実は首を傾げ、狐と目を合わせた。それ以外で考えれば、重実が安芸津より勝っているところなどない。身分はないし金もない。ついでに言うと、女子を想う心もない。


『うむ、わしでも安芸津につくわ』


「あっ酷ぇ。お前だけはおれの味方だろ」


『あ、一つあるぞ。重実のほうがこ奴より若い』


 びし、と自慢の肉球を安芸津に突き付けて言う。


「え、まさか。若さだけで男は選ばんだろ」


「う、た、確かに私は伊勢殿よりも大分年上になる。同じように強いのであれば、伊勢殿としても歳の近い者のほうが気安いかもな」


「いやいや、そうじゃねぇんで。それに安芸津様だって、何もじいさんってわけじゃねぇんだし」


『それは慰めか? 嫌味か?』


 狐の言う通り、引き合いに出すのが『じいさん』というのは如何なものか。だが立派なおじさんではあるのだ。


「それに何より、おれはここに留まる気はないですし。伊勢は武者修行に出たいそうですが、そんなものに出なくても、安芸津様の傍にいれば十分強くなれましょう」


『大体女子の身で武者修行の旅なぞ、できるわけなかろう』


 単なる旅でも女子の身では難しい時代だ。そんな理由で許可など下りるはずがない。そこのところは伊勢だってわかっているはずだ。


「やはり、ここに残って働く気にはならぬか」


 さも残念そうに、安芸津が言う。重実がここに留まれば、伊勢を取られるかもしれないのに、安芸津はそれよりも重実の腕を惜しむ。人がいいのぅ、と狐は鼻をひくつかせた。


「明日か明後日には発つ予定です。お世話になりっぱなしで何も返せませんが」


 居住まいを正して頭を下げる重実に、安芸津は微妙な顔ながらも小さく頷いた。

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