十一
三日もすると、重実は普通に歩けるようになった。傷はすぐ治るわけではないとはいえ、人よりは早いようだ。単に大怪我に慣れてしまって、さほど痛みも感じなくなってしまっただけかもしれないが。
「ほんとにもう何ともないのですか?」
伊勢が疑わしそうな目を向ける。傷を間近で見ただけに、どうしても信じられないらしい。
「大丈夫だって。それよりも、おかしくねぇか?」
重実は小奇麗な羽織袴姿だ。城に上がるのに今までの浪人体で行くわけにはいかない。それを理由に拒否しようとした重実だが、安芸津が自分の着物を出した。最早艶姫の希望は命令なのだ。
「おかしくはないですけど」
『似合わぬ』
微妙な顔の伊勢の言葉に、狐が付け足す。
「おれだって似合うとは思ってねぇよ」
「い、いえ、そういうわけでは」
伊勢が慌てて両手を振る。そこに、安芸津が入って来た。
「支度はできたか? そろそろ出かけようぞ」
「ほーい」
気のない返事を返し、安芸津について屋敷を出る。城に呼び出されたとはいえ、さすがに殿様に会えるわけではないだろう。何と言っても重実は単なる浪人だし、それでなくても殿様は病で臥せっているという。それなりの地位の者が、此度の働きを労う程度だろう。
思った通り、通されたのは城の庭先。階の前で控えていると、ぱたぱたぱた、と軽い足音がした。
「久世様、お久しぶりね」
艶姫が、奥から出てきて声をかけた。安芸津が、ごほんと咳払いをする。
「艶姫様、もう商家の娘ではないのですから、謹んでくださいよ。わたくしどものことも、呼び捨てで結構」
頭を下げ、安芸津が言う。
「そうだったわね。でもいきなりそんな、偉そうにできないわ」
困ったように言い、艶姫はすとんとその場に腰を下ろした。そして、思い出したように階の上から身を乗り出す。
「そうだ。久世様、斬られたのですって? 大丈夫だったの?」
「はぁ、まぁ」
『大丈夫でなかったら、ここにはおらぬわ』
曖昧な重実の補足的に、狐が突っ込む。実際あの傷を常人が食らったら、今ここにはいないだろう。
「面倒事に巻き込んでしまってごめんなさい。でもあの凄腕の刺客とやり合って無事だということは、久世様、お強いのね。初めもほとんどお一人で戦われましたものね」
「おれは伊勢に加勢しただけだよ」
ぺろっと言った重実に、安芸津が慌てて顔を向けた。姫君相手に、口の利き方に気をつけろと言いたいらしい。だが艶姫は気にする風もなく、きらきらとした目を向ける。
「そうそう、そのことなのだけど」
艶姫が何かを言いかけたとき、板を踏む音がした。安芸津が畏まる。重実も一応頭を軽く下げた。
「小野様」
艶姫が言い、手をつこうとするのを、その壮年の男が止めた。
「姫様、あなた様は姫君なのですから、そんなに私に畏まることはないのですよ」
穏やかな声だ。これが、家老の小野か。
「でも少し前まで、小野様は雲の上の存在でしたので」
「あなた様は、今やその雲を飛び越えておいでです。堂々としておけばよろしいのですよ」
ちらりと重実は視線を上げて小野を見た。それなりに歳は行っているが、大きな身体は衰えなど感じさせない立派さだ。おそらく武芸も納めている。立ち振る舞いに隙がない。
「そちが此度、いろいろと力になってくれた浪人か」
かけられた言葉に、重実は少し首を傾げた。重実自身は、あまり力になった実感はない。
「そちのお陰で北山も捕縛できた。すでに奉行を通じて事の次第は上に上がってきておる」
「おそれながら、北山を捕らえたのは安芸津様で、それがしは何もしておりません」
そういえば、北山を倒したのは重実が鳥居に斬られてからだったのだろうか。あのときは久しぶりに強い相手と対峙していたせいで、周りの状況など一切入ってこなかった。
「おぬしが鳥居と立ち合ったのであろう? 奴は恐ろしい剣鬼ぞ。その鳥居と互角に立ち合えたが故に、安芸津も北山に集中できたのじゃ」
「しかし、その鳥居は取り逃がしました」
「構わぬ。奴は単なる浪人じゃ。後ろ盾がなくなれば何もできぬ。北山を失ったことを根に持つような奴でもないしの」
確かに、北山のことは単なる金づるとしてしか見ていないと思われる。ああいった手合いはそういうものだ。
「ところで、どうじゃそなた。仕官を望むのであれば、此度の褒美に何ぞ口を利いてもよいぞ」
小野が言った途端に、艶姫が、ずいっと身を乗り出した。
「そうそう。ねぇ久世様、是非仕官して、伊勢に見合う地位を手に入れて頂戴」
「伊勢?」
訝しげに重実が言うと、艶姫は小野に顔を向けた。
「伊勢は確か、奥向きの剣術指南役でしたわよね。それに釣り合う身分って、何になるのでしょう?」
「伊勢に釣り合う身分ですか……。それなら同じ指南役になるのが一番早いでしょうが。それについては腕のほどが相当でないといけませぬなぁ」
「大丈夫ですよ。無頼浪人なんか、何人で来ようがあっという間に蹴散らせるほどの腕ですし」
何だか話が大きくなっているような。そもそも姫の前で剣術を披露したのは初めの一度きりだ。確かに五人ほどの刺客を蹴散らしたが、重実一人ではない。伊勢も戦っていたのだし、何より相手の腕も、さほどでもなかった。腕のほどは、姫にはわからないのだろう。何人かを蹴散らした、というだけで強いと思っても仕方ないが。
「それなら試験を受けてみるか? 確かに剣術指南役は、もっとも身分に関係なく就ける役目じゃ。今の指南役を打ち負かすほどの腕であれば、誰も文句は言わぬ」
「いや、ちょっと待ってくだせぇ。別におれは、仕官なんぞする気はありません」
何か勝手に話が進んでいるが、重実は城勤めなどする気はさらさらない。そもそも何故そんな話になったのか。
重実が口をはさむと、姫がまた、ずいっと廊下から身を乗り出した。
「何故? 久世様が仕官なさってそれなりの地位を手に入れれば、伊勢だって嬉しいはずよ」
「だから、何故伊勢が絡むのです」
「伊勢は強い殿方が好きなの。きっと久世様のこと、気になってるはず」
『うひ。はねっ返りも乙女な部分があったということかの』
しゃしゃしゃ、と狐が妙な笑い声を上げる。その横で、安芸津は微妙な顔で重実を見た。
「ね、久世様も、伊勢のために身分を手に入れてくださいな」
きらきらと言う姫に、重実は、ふぅ、と息をついた。
「生憎おれは、嫁取りに興味はありません。此度のことは、ただ面白そうだから乗っただけ。別に見返りも期待しておりませんよ」
『ただ諸国をぶらぶら巡るだけっつーのは退屈なのじゃ』
重実の横について、狐も意見を述べる。姿勢を正して述べたところで、重実にしか聞こえないが。
「近く、また旅に出ます故、どうぞわたくしめのことはお忘れください」
「えっ、もう行ってしまわれるの?」
まだ北山らを捕縛してから五日と経っていない。艶姫はもちろん、安芸津も驚いた顔をした。
「しかしそなた、傷がまだ……」
「大丈夫だって。まぁあと二、三日ほど厄介になりますが」
軽く言う重実を階の上から黙って見ていた小野が、思い出したように腰を落として声を潜めた。
「そういえば、取り逃がした鳥居は、手傷を負ったのか?」
「……どうでしょう。私は北山に掛かり切りだったので」
安芸津が首を捻る。重実は狐と顔を見合わせた。鳥居と剣を合わせたが、奴を斬った覚えはない。胸を裂いたが、身体まで届いたかどうか。
「一太刀も浴びせられなかったのであれば屈辱だな……」
ぼそ、と重実が呟く。それに、狐が頷いた。
『常人であれば、一太刀も浴びせられないまま殺られた、ということだしのぅ』
「言うな! 悔しい!」
むきーっと重実が頭を抱えて悶絶する。それを狐が、面白そうに眺めた。
『欲のないおぬしも、唯一剣の真剣勝負にかけては滾るのぅ』
狐に魂を食われてからというもの、重実が熱くなるのは強い相手と剣を交えたときだけだ。死なないとわかっていても、緊張感は半端ない。剣の真剣勝負では、死ななくても五体満足とはいかない可能性もあるからだ。それに、はたして首を落とされても死なないのかは疑問である。今の重実の、唯一先が見えない事態に身を置けるのが、剣での真剣勝負なのだ。
「い、いやしかしだな。正面から鳥居とやり合って、命があるだけでも幸いなのだぞ?」
いきなり頭を抱えて悔しがる重実に驚きながらも、安芸津が慰めるように言う。小野はしばし顎を撫でながら重実を見、少し難しい顔をした。
「おぬしは純粋な剣客だな。己の身がどうなろうと、強い相手を望む。そういう気質は鳥居と通じるであろう。奴も同じく、おぬしを好敵手と見ておれば、今一度おぬしと戦いたいと思うやもしれぬぞ」
「望むところでさ」
『わしはあまり望まんが』
「奴が手傷を負っておらぬのなら、今すぐ旅立てば危険なのではないか? どこぞで鳥居がおぬしを狙っておるやもしれぬ」
「鳥居は幸い、久世殿は斬られて死んだと思っているかもしれませぬ」
安芸津が言うが、小野は眉根を寄せたままだ。目の前の重実の様子から、とても死ぬほどの重傷を負ったとは思えないからだろう。
「……まぁ、奴がこのままどこぞへ去ってくれれば、それに越したことはないのだがな」
以前の安芸津と同じことを言い、小野は腰を上げた。
「ではおぬしには、旅の路銀を用立てよう。それであれば、邪魔にはならぬであろう?」
「は。ありがとうございます」
一文無しでも何とかなるが、金はあって困ることはない。多すぎたら安芸津に宿代だと言って押し付ければいいや、と考え、重実は深く頭を下げた。うむ、と小さく言って、板を踏む音が遠ざかっていく。
小野が去ってから、重実は顔を上げた。途端に階の上の、艶姫の不満そうな目にぶつかる。
「折角伊勢に、いい殿方が現れたと思ったのに」
ぷーっと頬を膨らませて、恨めしそうに重実を見る。
「生憎伊勢は、おれをそんな目で見てないと思いますよ」
伊勢の前で、そんないいところを見せた覚えもない。むしろ独り言の多い妙な奴、としか思われていないような。
『そうかのぅ。おぬしと一緒に旅に出たいとか言っておったではないか』
「あれは単に、武者修行に出たいってこったろ」
『そんなことを考える時点で、あ奴も相当妙な女子じゃが。お似合いかもじゃぞ』
「おれは体質が妙なだけで、人自体が変なわけではない」
ふん、と鼻を鳴らして、はた、と見ると、艶姫が妙な目で見ている。いつもながら、話している一方が他の者から見えないというのは不思議なものだ、と重実は呑気に姫の冷たい視線を受け止めた。
「強いってんなら、安芸津様がいるじゃねぇですか」
言いつつ安芸津に目を向けると、こちらもまた微妙な顔で重実を見ている。艶姫と違うのは、安芸津は姫のことも、微妙な表情で見ていることだろうか。その安芸津は、重実の言葉に一瞬止まった後、やたらと慌てた様子で、ぶんぶんと手を振った。
「なっ何を申すか。私は別に、そのような心は……」
『うむ? そういやこ奴、あのはねっ返りを好いておるのではなかったかな』
にやりと狐の目尻が下がる。狐なだけに(?)、そういう表情をすると一層不気味で悪そうである。
「だったら丁度いい。安芸津様は身分も伊勢より上でしょう?」
安芸津の身分は知らないが、家老の小野と会えるのだから、相当なものではないか。今まで気にもしなかったが。
「確かに安芸津様は、伊勢よりもお強いそうですけど」
艶姫が、やけに狼狽える安芸津に目を向ける。艶姫からすると、身分があるだけに姫ともきっちり線を引いて付き合う安芸津より、重実のほうが気安い分親しみもあるわけだ。
「ひ、姫様。私などのことより、ご自分のことだけお考えください。真之介様は、無事殿との目通りも叶いそうで何よりです」
安芸津が無理やり話を変えた。途端に、ぱっと艶姫の顔が輝く。
「ええ。久しぶりにお会いしたのだけど、相変わらずお優しかったわ。商家の娘のまま育っていたら、とても嫁げる方じゃないって、城に入ってからしみじみ思う。市井で育つよりも何かと大変だけど、あの方に嫁げるだけで幸せだわ」
「よぅございました」
嬉しそうな艶姫につられて、安芸津も笑顔になる。
「わたくしが真之介様に無事嫁げるのも、伊勢のお陰が大きいでしょう? だから、わたくしと一緒に、伊勢にも幸せになって欲しいのよ」
「それはまぁ、そうですが……」
話が戻り、安芸津がまた挙動不審になる。わかりやすい男だ、と思いながら、重実は腰を上げた。
「だからそれは、安芸津様に頼んでください」
そう言って一礼すると、重実は何か言いたそうな艶姫に背を向けた。