十
「医者はすでに用意してある。奥の部屋へ」
駕籠が降ろされるなり、ばたばたと慌ただしい足音が入り乱れる。ちょっと慌てて、重実は駕籠から転がるように出た。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。大丈夫だから」
「大丈夫なわけありますかっ! さ、戸板をこれへ」
伊勢が怒鳴り、家人に指示して重実を運ぶための戸板を持ってこさせる。
「大袈裟だよ。ほんとに大丈夫だって」
変に医者などに見られて致命傷だとか言われたら、後々ややこしい。重実は立ち上がって屋敷を見上げた。立派なお屋敷だ。
「久世殿、遠慮はいらん。無理をせず医者に診て貰え」
安芸津が言う。どうやらここは安芸津の屋敷のようだ。
「そんならとりあえずは邪魔するが。湯を貰えればそれでいい。医者は勘弁してくれ」
「何を申すか。その傷、無理をすると死んでしまうぞ」
「おれは死なないから大丈夫なんだって」
ひらひらと手を振り、きょとんとする安芸津に背を向けて、重実は屋敷に入った。血まみれの重実を見た家人が、青ざめて奥へ促す。
「さっ、ここに寝てください」
用意された部屋に入るなり、伊勢が敷かれた布団をぱんぱん叩く。
「……積極的だなぁ」
「何言ってるんです! ご希望通り医者は遠慮して貰ったのですから、後は素直に言うことを聞きなさい」
ぎらりと重実を睨みながら、伊勢は用意された湯に白布を浸した。伊勢が布を絞るのを待って、重実がにゅっと手を出す。
「……何です」
「自分でできるって」
「あなたという人はっ!」
頑なに他人の手当てを拒む重実に業を煮やした伊勢が、再びぎっと重実を睨むと同時に足払いをかけた。
「うおっ!」
まさかそんな攻撃をされるとは思っていなかったので、重実は派手に倒れた。腹に深手を負っている者に対する態度ではない。
「いてぇ!」
『ぎゃん!』
重実と狐が悲鳴を上げる。伊勢はお構いなしに、倒れた重実を転がすと、乱暴に着物の合わせを押し広げた。
「相当な傷じゃありませんか!」
言いながら、袴の帯に手をかけて、しゅるりと解く。
『うわぉ。重実の貞操の危機か。いやいや、いたたたた』
「ちょ、馬鹿なこと言ってねぇで……て、いでででで」
『こ、こりゃ女子。襲うならもっと優しく襲わんかっ』
「馬鹿なこと言ってるのはあなた様ですっ! このような傷なのに、医者を拒むなんて」
悶絶する重実から着物を剥ぎ取り、伊勢は絞った布で血を拭っていく。傷口の辺りを赤く染めていた血を拭うほどに、ぱっくり開いた傷が露わになった。伊勢の顔が青ざめる。
「やはり医者を……」
「待て待て。ほんとに大丈夫なんだって……いでででで」
膝立ちになった伊勢の腕を掴み、その拍子にまた悶絶する。
「どこが大丈夫なんですかっ」
「そ、そう思うなら足払いを食らわすなんてことするな」
呻くように言うと、やっと伊勢は口を噤んだ。ようやく落ち着き、重実はそろそろと上体を起こして傷を見た。
「さすがと言うべきか……」
ざっくりと斬られた腹は、下手に動けばはらわたがはみ出そうなほどだ。常人であれば即死でないにしても死ぬであろう。
『は~、やれやれ。おぬしが普通の人間であったら危なかったのぅ』
狐が己の腹をぺろぺろ舐めながら言う。別に狐の腹は斬られているわけではないのだが。
とりあえず傷の手当てをし、最後にさらしを巻き付ける。そこで重実の手が止まった。いつもなら狐に手伝って貰うのだが、今ここで狐にさらしの端を渡すわけにはいかない。伊勢には見えないのだから、さらしが勝手に重実の周りをくるくる回ることになる。
「……悪いが、ちょいと手伝ってくれ」
仕方なく、さらしの端を伊勢に渡す。すぐに察し、伊勢は手際よくさらしを重実の身体に巻き付けた。
「よっしゃ。ま、こんなもんだろ」
ぽん、と腹に巻いたさらしを叩いたとき、清水が部屋に入って来た。布団の上に胡坐をかいている重実を見、驚いた顔になる。
「え、起きて大丈夫なのか?」
「ん? ああ、大した怪我じゃねぇよ」
「それならよかったが……」
言いながらもどこか不思議そうな顔をしつつ、清水は持っていた単衣を差し出した。重実の着物は血みどろだったので、着替えを持ってきてくれたようだ。
「しかし、あれほどの出血で、よくぴんぴんしていられるものだ」
「おれに関しちゃ、その辺は心配せんでいい」
軽く言い、重実は単衣を羽織った。その身体を、伊勢がじっと見る。
「そういやここは安芸津様のお屋敷なのだろ? 北山もここに連れてきたのか」
「ああ。下手に奉行所に引き渡したら、いくらこちらの人間で固めているといっても安心できん。また明日には骸が増えるかもしれんし」
田沢派の者で此度のことに関わった者は、ことごとく殺されている。まして暗躍の中心人物と言っていい北山が捕らえられたとなると、手段を選ばず消しにかかるだろう。
「安芸津様が、直々に尋問される」
「へぇ。お姫さんは無事なのかい」
艶姫は少し前に城に入った。藩主が正式に艶姫の存在を明らかにしたので、とりあえずの身の危険はなくなったからだ。
「殿が艶姫様を思いの外可愛がられているので、周りは下手に手出しできぬ。殿の傍にいれば安全圏だ」
「そいつは良かった」
「北山を捕縛したことで、一気に田沢派に揺さぶりをかける。向こうも動くだろうしな」
今夜のうちに北山から口書きを取り、明日早速城に届けるそうだ。そろそろ此度の事件も大詰めか。
「そんじゃま、おれの出番もここまでだな」
この先は藩内の問題だ。そんなところまで関わるつもりはないし、関われる身分でもない。
「でもお手前は、まだ傷が癒えておらぬし、とりあえずは養生したほうがよかろう。安芸津様も、そのつもりでご自宅に連れてきたのだし」
そう言って、清水は部屋を出て行った。確かに死なないとはいえ、傷は傷だ。すぐに動けるわけではない。
「けどまぁ、そうそう世話になるわけにもいかんしな。さて、次はどこに行こうかね」
ちゃっかり布団の上で丸まっている狐に言う。
『どこに行くとか、決めたところでおぬしでは辿り着けぬわ』
極端な方向音痴の重実は、目的の場所にすんなり着けたためしがない。元々用事があるわけではないので、それでも全然構わないのだが。
「どうせなら、う~んと遠くに行くかな~」
呑気に言っていた重実だが、はた、と視線を感じて振り向けば、伊勢がじっと見ている。そういえばいたんだった、と、ようやく存在を思い出した。あれだけ乱暴に扱われて、忘れられるのも凄い神経だが。
「久世様は、諸国を旅して歩いているのですか?」
「うん? ……うん、まぁそうなるかな」
「武者修行の旅をしているわけですか」
「いや、そういうわけでもねぇけど」
この剣の腕は確かに長年の旅の中で鍛えたものなので、結果的には武者修行の旅になっているのかもしれないが、別にそれが目的なわけではない。旅をせざるを得ないから、自然に強くなっただけだ。
「わたくしも、連れて行っては貰えませぬか?」
いきなりな申し出に、重実はきょとんとした。
「……ちらっとその辺に行くんじゃねぇんだぞ」
「わかっております」
「わかってねぇよ。あんたは姫さんの警護役だろ。警護役が姫さんの傍から離れて旅に出るって、意味がわからねぇよ」
「姫様の護衛など、最早必要ありませぬ。正式に城に入ってしまえば、ちゃんとしたお付きの者がおりますし、そもそも襲われることなどありませぬ」
「そうは言ってもなぁ……」
重実の旅は、一所ひとところに留まることを避けるためだ。それは土地だけではなく、人との関わりについても同じこと。誰かとずっと一緒にいることは避けている。
「何でだよ。旅がしたいのか?」
女子は普通、国を出ることはない。今回のような特殊任務でなければ、旅にだっておいそれと出られない時代だ。
「強くなりたいのです」
強い瞳で言う。が、重実は眉を顰めた。
「あんたは十分強いよ。それ以上強くなって、どうしようってんだ」
「この程度の強さでは、いざというとき何の役にも立ちませぬ。いざというときに立ち向かわねばならない敵というのは、遥かに強い。己の未熟さを、まざまざと見せつけられたのです」
「いざというときなんて、そうそうあるもんじゃねぇ。それにお姫さんの警護がなくなるのであれば、それこそそんな必要ないだろう。あんたも女子なんだし、これを機に剣を捨てるのもいい」
重実が言うと、伊勢の顔が歪んだ。が、何か言う前に、すらりと襖が開く。
「その通りだ。伊勢殿、こののちは、女子の幸せを選ぶべきだ」
安芸津が入ってくる。
「随分話し込んでおられたが、傷のほうは大丈夫なのか?」
「あ? ああ、何ともない」
へら、と笑って見せると、安芸津は一層妙な顔をした。
「相当な傷だったと思うが」
「おれにかかれば、どんな傷もかすり傷さね」
もっとも痛みは普通にあるので、かすり傷とも言えないのだが。恐ろしいことに、痛みにも慣れるものなのだ。
「ところで北山は?」
「ああ、あっさりと口を割った。北山からすれば、黙っていればいるほど、己の身が危うくなると思ったのではないかな。まぁ喋ってしまえば危険はなくなるという保証もないが」
「……ま、殺されるにしても、そう急ぐ必要はなくなるわな」
「あとはこの次第を、小野様に届ければいい」
証拠は固めたので、あとは上に任せておけばいい。
「残る懸念は、鳥居を逃がしたことだ」
「また仕掛けてくるってか?」
可能性は、ないとは言えない。が、鳥居を使っていたのは北山である。単なる浪人である鳥居が、北山よりも上の者に会うことなどないだろう。そもそも雇い主がないのだ。危険を冒してまで利にならない戦いはしないと思う。
「北山が捕まっちまえば、心配いらないと思うな。奴は金で人を斬る職業人斬りだ。今さらこちらの誰を斬ったって、金が出るわけでもねぇ」
「そうか。……うむ、そうかもしれん」
しばし考え、安芸津は頷いた。
「奴も剣客だ。そういう心がまだあるなら、強い相手に出会ったなら決着をつけたいと思うものだが。だが、おぬしは死んだと思っているかもな」
やはり少し不思議そうに、安芸津は重実の腹の辺りを見ながら言った。鳥居の腕を知っている安芸津からすると、正面から斬られて助かっている重実が信じられないようだ。
「そう思われていたほうが、おぬしにとってはいいだろうが。正面から対峙して、かすり傷で済んでいると知れば、それこそ興味が湧くだろう」
『何をしても死なぬと知れた日にゃ、ぐちゃみそにされそうじゃ』
今まで黙っていた狐が、恐ろしいことを挟む。
「それは避けたい」
『わしもじゃ』
「そうであろうの。このまま鳥居がどこぞへ去ってくれればいいのだがな」
狐の言葉が間に挟まっても会話は成り立つものだ。故に重実の、普通に狐と会話する癖が治らないとも言える。
「そうだ。そのうち殿からもお言葉があるやもしれぬ。何と言っても艶姫様をお守りしたのだから」
「……おれが助けたのは、姫というより伊勢なんだが」
ぺろっと言うと、伊勢が弾かれたように顔を上げた。おや、と狐が意外そうに伊勢を見上げる。
『おやっ。もしやこの女子、おぬしに惚れたか』
ずかずかと近付き、狐はすぐに俯いた伊勢の顔を覗き込む。全く見えないというのは、遠慮というものが微塵もない。
『さっきも一緒に行きたいとか言うておったし、なかなかどうして、喜ばしいことではないか』
「どこがだよ」
ふぅ、と息をついて伊勢を見、安芸津に目を戻すと、少し妙な顔の安芸津と目が合った。重実が首を傾げると、安芸津はその顔のまま、いや、と呟いた。
「助けを求めたのは、姫様だろう?」
「……別に助けを乞われたわけではないと思うが。というか、伊勢が斬られて倒れてたし。うん、そうそう、折角隠れてたのをおれが見つけて、しかもおれの足跡を辿って討手に見つかってしまったわけだから、まぁその詫びだよな。おれのせいで見つかったお陰で、斬られてんのに伊勢は戦わないといけなくなったわけだし」
だからやはり、重実が助けたのは伊勢なのだ。
「だから別に、お言葉なんかいらねぇよ。大体殿様に会える身分でもねぇし」
「そうはいっても、姫様がやたらとおぬしを推しているからなぁ」
「おれを? 何に」
訝しげに言うと、安芸津は少し首を傾げた。
「それなりの職に就けるように取り計らっているのではないかな」
「余計なことだよ。身分に拘りはない」
士官などしたら、ろくなことにならない。今回のように、城内はあらゆる欲望の渦巻くところだ。欲のない重実など疲れるだけだろう。
「まぁ、だが姫様にも一度おぬしを連れてきて欲しいと言われておるしの。ここしばらくずっと一緒だった伊勢とも城に入ってからは離れ離れだし、今後の報告がてら、一度御前に上がろうではないか」
安芸津に言われ、少し重実は身体を捻ってみた。重実本人が元気なので忘れがちだが、傷は決して浅いものではない。死なないだけで、傷がすぐ治るとかいうわけではないのだ。痛みだってある。
「動けんこともないが、傷はまだ塞がってないしなぁ」
『殿様の御前で臓物をぶちまけるわけにもいかんしの』
それで死ねばともかく、臓物をぶちまけても死なないのだからなお悪い。後が面倒だ。
「おお、そうであった。あまりに元気なものだから忘れておった。おぬし、結構な重症なのよな」
ようやく安芸津は鳥居に斬られたことを思い出し、腰を上げた。
「姫様にはそう伝えておく。傷が癒えるまで、ここで養生するがいい。鳥居の行方も探っておこう」
そう言って、安芸津は伊勢を促した。少し躊躇った後、伊勢は重実の着物を持って、安芸津に続いた。