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さらさら  作者: 藤堂左近
10/14

 さてそんな誤解を抱いたまま、襲撃当日になった。昼過ぎから安芸津の配下の者が何人か、浜ノ屋を張り込んでいるという。日が落ちた頃に、ようやく重実は伊勢と安芸津と共に、件の料亭に赴いた。


「奴らは離れを使う手筈になっている。店のほうで大騒ぎをするわけにはいかんからな」


 安芸津が言い、料亭の正面は素通りして、店の裏手に回る。風情のある板塀の向こうに、小さな離れの屋根が見えた。


「安芸津様」


 不意に料亭の斜向かいの路地から、一人の男が現れた。仲間の一人のようだ。


「ぬかりはないか」


 安芸津が言うと、男は、は、と頷き、次いで少し後ろに控える重実を不審そうな目で見た。


「彼は此度の助っ人だ。姫様をお救い頂いた恩人でもある」


「そうでしたか」


 あからさまにほっとした顔になり、男は清水といいます、と言って重実に軽く頭を下げた。重実は軽く肩を竦めてみせる。


『おぬしが救ったのは伊勢だっつーのにのぅ』


「結果的には姫さんも助かったわけだから、間違いではないがな」


 相変わらず狐と会話し、重実はざっと周りを見た。板塀の先に、小さな門がある。店の裏口というところか。離れの出入り口は、その小さな裏門と、あとは店のほうに回っての正面玄関しかない。


「鳥居はいるか?」


 安芸津の問いに、清水は固い表情になって顎を引いた。


「北山様のほうは鳥居のみですが、米滋のほうにも浪人風の男が二人、ついておりました」


「何だと? 用心棒か」


 うーむ、と安芸津が渋い顔をする。わざわざ用心棒を雇った、ということは、相当な腕前なのだろう。


「ご心配なく。わたくしが、その浪人を引き受けましょう」


 ずいっと伊勢が前に出る。その姿に、清水は驚いたような顔になった。


「おおっ? もしや伊勢殿か。いや、どうされたのだ、その恰好。ああ、髪まで短く……」


 伊勢は重実らと同じような袴に、髪は頭頂で括っている。腰に二刀を帯びた姿は、この暗さではまさか女子だとは思うまい。


「何とまぁ、勿体ないことを」


「何を仰せです。私はそもそも姫様をお守りするのが役目。男のなりのほうが、お役目に向いておりましょう」


 ぴしゃりと言う。安芸津と同じように、清水はしきりに残念がったが、当の本人がこの調子なので、取り付く島もない。


「伊勢は人気があるんだなぁ」


 重実が小さく言うと、安芸津が少し笑って頷いた。


「あの気性だから、おいそれと言い寄る者もいないのだが。勿体ないことだ」


『こ奴にとっては、そのほうが安心なのではないか?』


 狐が茶々を入れるが、当然安芸津には聞こえない。


「さて、じゃあちょいと近付くかね」


 安芸津が伊勢をどう思おうと、重実には関係ない。門から首を伸ばして離れの様子を確かめ、重実はするりと門の内側へと身体を滑らせた。そういう話に興味のないのは伊勢も同様のようで、すぐに重実の後に続く。


『わしが中を見てこよう』


 狐が、ててて、と駆け出し、堂々と庭に面した障子の前まで近付く。が、そこでぴたりと止まった。


『困ったぞ。障子を開けねば中に入れぬではないか』


 至極当然のことを言う。狐は人には見えないが、壁などをすり抜けられるわけではない。当然戸があれば、開けて貰わねば入れないのだ。


『重実、開けてもいいか?』


 障子に前足をかけて振り返る。


「いいわけないだろう」


 障子に向かって言う重実に、安芸津がぎょっとした。途端に狐の前の障子がすらりと開く。幸い重実らはまだ建物自体に近付いておらず、庭に入ったところの茂みの奥にいたので気付かれることはなかったが、狐は勢いに負けて、ころりと廊下に転がった。


『いたっ。驚くではないか。いきなり開けるでないわ』


 姿が見えないので、狐は普通に悪態をつく。障子を開けたのは着流しの男だ。外からは逆光になるのでよく見えないが、ひょろ高い背格好で、手に大刀を持っている。


「鳥居っ」


 重実の横で、伊勢が呟いた。そういえばあんな感じだったかな、と眺めている視線の先で、狐が起き上がった。


『しめしめじゃ』


 するりと鳥居の足元をすり抜け、部屋に入る。


「何かあったか?」


 中から声がした。北山のようだ。鳥居は一通り庭を眺め回した後、静かに障子を閉めた。


「なるほど、確かになかなかな野郎だな」


 僅かな気配を察知したのだろう。そうそうできることではない。


「鳥居は倒しても一向に構わんが、北山は生かして捕縛せねばならん。これが厄介だ」


 安芸津が言う。横に控える清水も、先ほどとは違い顔が強張っている。あまり実戦の経験がないのかもしれない。


「しかし、捕縛したところで、与力なんか牢に繋げるのか? 大体牢だって安全じゃねぇ。また証人の躯が増えるだけじゃねぇのか」


「その点は心配ない。此度は小野派の宇津木様に話を通している。宇津木様は北山の上役であるお奉行を束ねるお立場だ。宇津木様が手を回し、北山を収監する牢役人は小野派で固めている。もっとも牢などに入れる暇なく吟味されるだろうが」


 実際に動いている北山が捕まれば、田沢派の足元は一気に危うくなる。筆頭家老の位置にいる田沢を直接引きずり下ろすほどのものではないと思うが、ただでさえよろしくない現藩主の心象は、さらに悪くなろう。その上に、民の生活を圧迫している米の独占などを操っていたとなれば、周りの反対も大きくなる。民の心を掴んでいない藩主など、国の存亡に関わる。


「ただ、それ故向こうも必死になろう。北山が捕らえられたとなれば、それこそ前の牢死した者よりも早く始末しようとするはずだ」


「いくらお味方で固めていても、油断はできないってことか。まぁそうだろうな」


「その点、米滋は簡単に口を割るだろうな。捕らえてしまえば我が身可愛さに全てをべらべら喋るはずだ。ああいう奴は権力に弱い。捕らえるのも簡単だろう。だが逆に、このどさくさに紛れて始末されるかもしれん」


「では米滋は、捕らえ次第早々に、どこぞに隠しましょう」


 清水が言い、伊勢と頷き合う。そして、安芸津を見た。


「我々が突入すると同時に、手筈通り捕り方たちが向こうの仕舞屋から飛び出して、出口を固めます」


 つい、と板塀の向こうを指す。この料亭の裏には、小さい仕舞屋があった。空き家のようだったが、そこに捕り方が詰めているらしい。


「捕り方ってのは何人だい?」


 重実が男に聞く。この離れの規模だと、あまり多すぎては返って邪魔になる。


「鳥居がおりますもので、人海戦術で抑え込もうと思ったのですが、それだと犠牲が多くなると言われまして、厳選して十人です」


 逃がさないことが大前提なので、この板塀の出入り口を固められればいい。


「十分だ。ついでに、あんまり中に入らないよう注意してくれよ」


 部屋の中で斬りあうわけにはいかないので、必然的にやり合うのは庭になろう。十人もこちら側の人間が散らばっていると、思う存分刀を振るえない。鳥居らはこちらの人間が傷付こうが構わないから支障ないかもしれないが、こちらはそうではないのだ。


「ではそろそろ乗り込むか」


 安芸津が、腰の刀を握りしめた。重実は首を伸ばして離れの障子を睨んだ。狐が、何かきっかけをくれるはずなのだが。

 そのとき、不意に離れの中が騒がしくなった。がしゃんがしゃんと、何やら膳をひっくり返すような音がする。続いて、「うわっ」「何だ?」といった戸惑いの声と、人の動く音。


「今だ! 行くぜ!」


 すかさず重実が立ち上がり、離れ目指して一直線に駆けた。一気に廊下に上がり、そのまま障子を引き開ける。

 その瞬間、鼻先を刃が横切った。障子を開けると同時に身体を反転させなかったら、突き出された刀に顔を串刺しにされていただろう。


「何者だ」


 刀を突き出した格好のまま、鳥居が口を開いた。


「へ、さすがだな」


 重実が障子の陰から姿を現した。鳥居の目が、僅かに見開かれる。


「貴様は……」


「覚えていたかい。あんたの闇討ちを阻んだんだものな」


 軽く言ったことに、北山が反応した。


「何だと? 鳥居、こ奴がそうなのか? ということは、小野派の刺客か」


 言ったものの、北山は座ったままだ。いきなり襲われても落ち着いている。


「ふん、馬鹿な奴だ。与力の立場にあるわしを、おぬしのような浪人が斬れると思っているのか」


「生憎浪人にゃ、与力も奉行も関係ねぇよ。お勤めしてねぇんだから」


 言いつつ、重実は部屋の中に目を走らせた。狐が、散らかった膳の上の器に顔を突っ込んでいる。


「おいこら。いじましい真似すんじゃねぇよ」


 重実が声をかけると、狐はひょいと顔を上げた。油揚げを咥えている。


『いや、高級料亭の油揚げを逃す手はなかろうが』


 北山らの注意を引くために、わざと膳を蹴散らしたのだと思ったのに、狐の目的は単に油揚げだったのか。


『いやいや、蹴散らしておる最中に見つけたのじゃ。初めから油揚げ狙いではないぞ』


「どうだか」


 言っている間も、狐は忙しく、はむはむと油揚げを頬張っている。他の者には見えない、というのはつくづく羨ましい。そしてそんな見えない狐の相手をしている重実は、がっつりと北山の神経を逆なでしたようだ。


「何を言っておる! 貴様、わしがいじましいと言うのか!」


 北山が額に青筋を立てて怒鳴る。


「あ、いや、あんたのことじゃねぇんだけど。でもまぁ、似たようなもんだろ。てめぇの手は汚さずに、周りの者にやらせるほうが汚いぜ。しかも事が済んだら刺客を放って始末するなんざ」


 一瞬だけ、北山の片眉が上がった。が、すぐに平静さを取り戻す。


「……何のことを言っているのかわからんな」


「しらばっくれるかい。でもあんたさっき、そのおっさんにおれのこと聞いたな。おっさんが斬ろうとしてたな、ちょっと前に南河岸についた荷下ろしに加わった野郎だぜ。その前にも同じ荷下ろしを手伝った者が殺された。おっさんが斬り損ねたのをあんたは知ってたんだな。何故だい?」


 早口で喋る重実を見る北山の目が、すっと細くなった。


「……貴様、ただの犬じゃないな。何者だ」


 ゆらりと北山の身体から殺気が立ち上る。


「おっと、あんたの相手はおれじゃねぇよ」


 素早く重実は、身体を北山のほうに向けたまま、後ろ向きで庭に飛び降りた。そこでようやく、安芸津が茂みから立ち上がる。


「全く、いつ出て行っていいものやらで、ひやひやしたぞ」


 思わぬ重実と北山らのやり取りで、返って緊張がほぐれたようだ。先ほどまでの力みはない。安芸津の姿を認め、北山の顔に緊張が走った。


「あ、安芸津様が、何故このような奴と……」


 重実は普通に接するので気付かなかったが、どうやら安芸津は結構な地位の人間らしい。考えてみれば家老の一人である小野とやり取りできる辺りで、相当な地位なのだ。与力風情がおいそれと会える者ではない。


「おぬしこそ、何故このような米問屋と、このようなところでこそこそと会っておるのだ? いかがわしい浪人までつけて」


 う、と北山が言葉に詰まる。安芸津が、ちらりと清水を見た。それを受けて、清水が斜向かいに合図を送る。途端にわらわらと、潜んでいた捕り方が庭に散開した。あからさまに狼狽えた米滋が、慌てて逃げ出そうとする。


「出入り口を固めろ!」


 清水の声に、庭に入ってきた捕り方は、大方が枝折り戸付近に固まった。そして先に庭に入った幾人かが、米滋に殺到する。


「ひぃっ! わ、わしは北山様に言われる通りに動いただけじゃ!」


 捕り方に囲まれ、米滋が喚いた。それに、北山の表情が一変する。


「米滋! 余計な口を叩くんじゃねぇ!」


 地の出た伝法な物言いに、米滋がびくっと身体を震わせて口を噤んだ。


「お前には、後でとっくり話を聞かせて貰う」


 安芸津が言い、集まった者らに合図する。たちまち後ろ手に縛られ、米滋は引っ立てられていった。


「さて、おぬしからも話を聞く必要があるのだがな」


 腰の刀に手をかけ、安芸津が部屋の中の北山に言った。しばし口を引き結んで安芸津を睨んでいた北山は、ざっと周りを見回した。清水が手配した捕り方は、米滋を連れて出て行った。今は先の半数ほどが、料亭の裏口を固めているのみ。北山・鳥居と対峙しているのは、安芸津と清水に、重実と伊勢だけだ。


「ほぅ。貴様はあのときの女子か。えらくさっぱりしたものだな」


 鳥居が、伊勢に気付いて言った。


「生きておったか。よぅもまぁ逃げきれたものよな」


 己の腕に、余程自信があるのだろう。面白そうに、じろじろと伊勢を見る。


「女子一人を取り逃がすなんざ、あんたも大したことねぇな」


 不意に重実が、馬鹿にしたように言った。ぴく、と鳥居の片眉が上がる。


「そう思うなら、試してみるか?」


 さすがに簡単に挑発には乗らないようだ。すぐに激昂して刀を抜くようであれば、本当に大したことはないのだが。鳥居はゆっくりとした動作で庭に降りた。両手をだらりと下げたままで、先ほど抜いたままの刀を無造作に持っている。


『不気味じゃのぅ』


 鳥居の後ろから出てきつつ、狐が呟いた。


『こ奴、何の気も感じぬ』


 通常剣客というものは、相手の僅かな気を読んで攻撃するものだ。対峙すれば気は昂るし、剣を構えれば剣気を相手に放つ。常にその変化を読んで攻撃したほうが有利なのだ。


『まぁおぬしも似たようなものかの』


 重実はそもそも生きているのか怪しい存在だ。気というものがあるのかどうか、自分ではわからない。

 呑気に言い、狐はとことこと重実のほうに寄った。だが少し離れたところでぴたりと止まる。


『では頑張っておくれ』


「おいこら。お前は高みの見物か。おれが斬られたらお前も痛いんだから一緒だろうが」


『だがわしは丸腰ぞ。わしが真っ二つにされたら、おぬしも真っ二つやもしれぬぞ? そっちのほうが嫌ではないか?』


「……うーむ、確かに」


『心配せんでも、危なくなったら加勢してやるわい。わしとて痛いのは嫌じゃ』


 少し離れた地面に向かって喋る重実に、鳥居も伊勢も妙な目を向ける。


「久世様。このようなときにまで、独り言はよしてください」


 き、と伊勢に睨まれ、重実はようやく口を噤んだ。狐が、馬鹿が、という目で見る。

 そのとき、背後でキィンという金属音がした。安芸津が北山と刀を合わせたらしい。伊勢が少し目をそちらにやった。


「他を見る余裕などないと思うぞ!」


 いきなり鳥居が、伊勢との間合いを詰めた。はっとしたときには、鳥居は伊勢のすぐ前に。伊勢は目線を動かしただけだ。ほんの一瞬、鳥居から目を離しただけなのに、その一瞬で間合いを詰めた。恐るべき早業だ。

 が、鳥居の刀を持った右腕が動くことはなかった。同じように動いた重実が、鳥居の右腕をがっちり掴んでいたのだ。


「あんたこそ、どこ見てやがる。あんたの相手はおれだよ」


 少し、鳥居の目に驚きの色が浮いた。抜き身を持った手を素手で押さえるなど、そうできることではない。力で負ければ即斬られる位置だ。


「……いいだろう」


 何かを感じたのか、鳥居は素直に刀を引いた。


「見たところ、おぬしも別に、藩の者ではないな」


「おれはお前さんと同じような、単なる用心棒さね」


「なるほど。では斬り捨てても問題ないな」


「お互いにな」


 喋りながらも、鳥居は重実との距離を測りつつ、戦いやすい位置へ移動する。そして植木などのないもっとも拓けたところで止まると、ようやく刀を構えた。


「名を聞いておこうか」


「久世 重実」


 いまだ刀を抜いていない重実は、隠すことなく名乗った。鳥居が、記憶を辿るように、まじまじと重実を見た。それなりの腕で、きちんと道場に通っていれば、名は知れる。どこの道場の門弟かがわかれば流派もわかり、おおよその太刀筋もわかるというものだ。

 だが鳥居の頭には、重実の名はないようだ。


『まぁ道場に通っておった頃のおぬしは、名が売れるほどの腕前ではなかったしのぅ』


 喧嘩沙汰に巻き込まれて、あっさり斬られるような腕前だ。しかもそれで死んだことになっているのだから、鳥居が重実のことを知らなくても無理はない。むしろ知られていたほうがややこしい。


「……ま、道場の竹刀剣術など、実戦では役に立たぬものだからな」


「確かにな」


 竹刀では、重さが刀とはまるで違う。せめて木刀でないと何の役にも立たないものだ。今の重実の腕前は、放浪の上での実戦で身につけたものである。

 重実は足を広げて腰を落とした。右肩を落とすように、上体を捻る。


「居合か」


「さてね」


 じり、じり、と足先で地面を探り、鳥居が間合いを詰める。後方の安芸津も今はお互い間合いを測っているのか、しん、と静寂が辺りを包む。そんな緊迫した空気の中、一人(一匹?)狐だけが、きょろきょろと重実と安芸津を見、おもむろにてこてこと北山のほうへ歩み寄った。そして、いきなり北山の脛を、ふさふさの尻尾で撫でる。


「ひぇっ?」


 いきなり脛に妙な感触がし、北山は素っ頓狂な声を上げた。その瞬間、安芸津も鳥居も反応した。


「だあっ!」


 二人の気合が重なる。安芸津の剣は北山の首筋目掛けて落とされ、首根に入る直前で峰に返される。鳥居の剣は峰に返されることなく重実の肩口に落とされた。だがその途端、ぐん、と重実の身体が沈んだ。行き場を失った鳥居の刃が、重実の軌道を追う。


「やっ」


 軽い掛け声と共に、重実の腰から閃光が走った。同時に、キン、と音がし、鳥居の刃が僅かに横に流れる。


「甘いわっ」


 鳥居の軌道を外したとはいえ、軽く受け流しただけだ。すぐに反応し、鳥居は流れた刀をそのまま斬り上げようとする。だが、重実は先ほどの抜刀の勢いのまま、身体を反転させた。


「何っ?」


 思いもよらない行動だろう。重実は鳥居の目の前で一回転すると、そのまま遠心力の乗った刀を鳥居の身体に見舞おうとする。


「くっ……」


 鳥居が足を踏ん張り、思い切り後方に飛んだ。重実の刀は、鳥居の胸元を浅く裂いて流れた。


『ほおぉ。さすがじゃのぅ』


 狐が少し興奮気味に、後足で立ち上がって声を上げる。鳥居は自分も攻撃の途中だったのに、予測外の動きをした重実に反応し、見事に避けた。ほとんど無意識の、本能的な反応で攻撃を回避したのだろう。頭で考えていては間に合わないほどの反応の速さだった。


「ちっ。外したか」


 再び元の身体の向きに直り、重実は刀を己に引きつけた。柄を握った右手を肩より上に掲げ、その高さで後方に引く。妙な突きの構えだ。鳥居の目が怪しく光った。


「面白い」


 にやりと笑い、正眼に構える。その剣先から、痺れるような剣気が放たれた。重実を、侮れない相手として本気になったようだ。


『ひえ~。重実よ、心してかかれよ~?』


 獣なだけに、気に敏感なのか、狐が前足で頭を抱えて丸くなる。危なかったら加勢するとか言ってなかったか。そんな丸まっていて動けるのだろうか。


「ま、おれも痛いのは嫌だしな」


 呟き、重実は鳥居を睨んだ。双方の身体から殺気が放たれる。先ほどまでとはまるで違う空気が、辺りを包んだ。


「行くぞ!」


 言うなり鳥居が仕掛けた。素早い寄り身で迫り、一気に間合いを詰める。びゅっと刃が、重実の上に落ちて来た。それをぎりぎりでかわし、重実は目の前に迫った鳥居の首根目掛けて刀を突き出す。十分引きつけてから見舞った突きは威力絶大だ。決まれば確実に致命傷を与えられる。

 だが、目の前に迫ったはずの鳥居の姿が消え、重実の刀は空を切った。はっとした重実は、咄嗟に地を蹴って横に飛んだ。ほぼ同時に、ぱっと血が飛ぶ。


「……ほぅ。なかなかいい反応だ」


 身を起こしながら、にやりと鳥居が笑う。


「だが、結構な深手ではないか?」


 膝をついたまま腹を押さえる重実の手から、じわじわと血がにじみ出る。鳥居は袈裟懸けに来るふりをして、重実の突きを沈んで避けつつ下から横に腹を狙ってきたのだ。横に避けたお陰で二つになることは免れたが、完全には逃れられなかった。


『こりゃ重実ーーっ! 痛いではないか! 油断するなと言うたろーに!!』


 狐が喚く。


「うるさいよ。この程度なら慣れっこだろ」


 ぼたぼたと血を流しながら、重実はよろめきつつ立ち上がった。


「ふっ。強がりもほどほどにしておけよ。慣れるほどの傷ではあるまい。最早動くのもままならんのではないか?」


 鳥居が面白そうに言いながら、己の刀を肩に担ぐ。伊勢が、ざっと刀を構えた。重実がやられたと見、加勢に加わるつもりのようだ。


「まぁ何度食らっても痛いがな。生憎頑張って動かねぇと、さらなる地獄になるからな」


 常人であれば放っておけば死ぬ傷でも、死なない重実はただ苦しみが続くだけだ。故に少々傷が痛くとも、これ以上傷を負わないためには動かねばならない。


「てことで、あんたはちょいと引っ込んでてくれ」


 刀の切っ先で、伊勢を追い払う。


「な、何を言っているのです。その傷で、鳥居に勝てるとでも?」


「勝てるかどうかはともかく、傷は大したことねぇよ」


 ぴ、と手を振り、血を飛ばす。そして刀を構えた。


「やる気か。動けば動くほど、身体の中が潰れるやもしれぬぞ?」


 にやにやと鳥居が言う。刀を構える気配はない。このまま重実が苦しみつつ死ぬのを待つ気のようだ。


「おのれ、お前はそれでも武士か」


 伊勢が吠え、重実を押し退けて鳥居に刀を突き付ける。武士であれば、敵であろうとむやみに苦しみを長引かせるようなことはするべきではない。相手が致命傷を負ったなら、速やかにとどめを刺すべきなのだ。


『そうじゃそうじゃ! わしらはとどめというものが効かぬ故、貴様なんぞとっとと倒されてしまうべきなのじゃっ』


 それはちょっと違うぞ、と重実が突っ込む間もなく、狐は叫ぶと、地を蹴って鳥居に飛び掛かった。いきなり刀を担いでいた右手に食らいつく。


「ぎゃっ!」


 鳥居が叫び、危うく刀を取り落としそうになる。前触れもなく、いきなり右手に激痛が走ったのだから驚いて当たり前なのだが、刀を落とさないところはさすがである。が、その隙をついて、すかさず重実が踏み込んだ。


「りゃあっ!」


 気合と共に、構えた刀を大きく回して逆袈裟に斬り上げる。


「うおっ!」


 ざ、と鳥居が飛び退った。だが重実はさらに踏み込みつつ、刀を繰り出す。


「……くっ……」


 思わぬ攻撃を受け、鳥居は顔を歪めながら後退を続けた。


『しつっこいの』


 鳥居の手にぶら下がっていた狐が、ようやく口を離して、とん、と降りた。鳥居が動くと身体が揺さぶられて、先の傷が痛むのだ。手の激痛がなくなった途端、鳥居は、ぱっと身を翻した。


「あっ!」


 伊勢が気付いたときには、鳥居は枝折り戸を固めていた一人に突っ込んでいた。鳥居に迫られた者は慌てて避ける。その隙をついて、鳥居は外へと逃げ出していった。


「いい、追うな」


 我に返って鳥居を追おうとした何人かを、安芸津が止めた。その安芸津の足元には、北山が倒れている。鳥居は北山が倒されたのを見、逃げたのだろう。


「奴は単なる用心棒。腕は侮れぬし、深追いするべきではない。北山は捕縛したしな」


 安芸津の言葉に、皆ばらばらと倒れている北山に駆け寄った。そして手早く縛り上げる。倒れていたが、斬られたわけではなく、昏倒していただけのようだ。安芸津が峰打ちで仕留めたのだろう。


「久世殿、大丈夫か」


「ああ」


 軽く言ったが、重実の腹は血で染まっている。説得力ねーな、と思いつつ、重実は顔をしかめた。死ななくても、痛いものは痛い。


『全く、油断するからじゃ。うう、腹が痛い。折角の油揚げが出てしまいそうじゃ』


 狐が前足で腹を押さえて悶絶している。


『早よぅ軟膏でも塗って、傷を塞げ』


「心配せんでも、はらわたまでは届いておらん」


 相変わらず血を噴く腹を押さえて、重実は鳥居の去った闇を見つめた。恐るべき相手だった。最後でこそこちらが押したが、あのまま戦っていたら、体力的にも負けていたかもしれない。


「駕籠を用意してきます」


 伊勢が、言うなり駆け出していき、程なく二挺の駕籠がやって来た。


「さぁ、乗ってください」


 一挺に北山を押し込み、もう一挺に重実を促す。


「え、何で」


「何をとぼけているのです。そんな深手で、歩けるわけないでしょう。死ぬ気ですか?」


「いや、大丈夫だって」


『わーい、お言葉に甘えて』


 思い切り引く重実の横をすり抜け、狐がいそいそと駕籠に乗り込んだ。


『こりゃ楽ちんじゃ。お大尽にでもなった気分じゃのぅ』


 嬉しそうに、中で丸まる。


「おいこら、何してやがる」


 重実が狐を下ろそうと駕籠に頭を突っ込んだ途端、後ろからどかっと押された。


「暴れないでくださいよ。血で汚すわけにはいきませんので」


 見ると駕籠の中にはあらかじめ布が敷いてある。伊勢の上着のようだ。結構な出血量なので、どうしたって血はついてしまう。できるだけ駕籠の中を汚さないよう、伊勢が敷いておいたらしい。


『ふふ、あの女子、男勝りとばかり思っておったが、何気に気が利くではないか』


「だったらもうちょっと優しく乗せて欲しい」


 頭から駕籠に突っ込み、さらに押された直後に足を持ち上げられて押し込められたため、妙な体勢で転がりながら、重実が呻く。ちなみに駕籠は、重実を押し込んだ途端に宙に浮き、とっとと出立してしまっている。


「こんな体勢のほうが、腹の傷に悪そうだ」


『はらわたが捻じくれたって死なぬのだから、いいではないか』


「余計に苦痛が長引くじゃねーか」


『ま、あの女子の好意に甘えるのもよろしかろうよ』


 狐が、少し面白そうに言った。


「好意?」


『単なる助太刀の浪人のために、駕籠を用意してくれたのだぞ? 急いでおるのも、おぬしのためじゃろ』


 かなりの速度で走る駕籠の揺れは半端ない。妙な体勢も相まって、普通であれば死ぬのではなかろうかという状況だ。


『それだけ必死になっておるということじゃ。とにかく早く、おぬしの手当てを、ということしか頭にないのであろ』


「ありがたいやら、申し訳ないやら」


 重実は苦笑いした。死なないのだから、そんな急いでくれなくてもいいのだが。そんなことを話しているうちに、駕籠はある屋敷についた。

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