第1章
この学校の生徒が自殺した。放送朝礼で校長が発表した。朝から衝撃的なニュースを聞かされた。みんなうつむき先生は泣いている。別に泣いているのは先生に限ったことじゃない。クラスにいる何人か。多分その子と仲が良かった子だと思う。時々話しているのを見たことあるし。でも問題はそこじゃない。別の子で大して交流がない人も泣いてる。ちなみに僕は特にない。喪失感っていうかもう会えないんだなっていうことを考えるくらい。きっと感情の起伏がない。何かが欠けている。
だから人と距離を置く。近すぎると互いによくない。傷つけてはいけないといいながら、周囲には憎悪が満ち溢れている。見すぎて何も感じなくなったのかもしれない。なんで周りの人はあれだけの罵倒や中傷、傷つけあい、憎悪をし隠したりその中に身を置いて正気を保っていられるんだろう。僕だったら三日も持たない。感情の起伏が薄いって言っても、胸は痛くなったり苦しくなったりはするんだ。
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次の日。昨日あれだけ泣いていた生徒も先生も別人のように明るく振舞っていた。いつまでも同じ気分を引きずっていることもできないって言うことなのだと思う。けれど笑いながらどこのアイスがおいしいとかっていう話を、するってことは。結局死んだ生徒のことはそこまで重くないってことなのかな。命はお菓子より軽くはないはずだと思う。正直なところは分からないけど。そんなことを考えたり昼寝をしながら、いつも通り授業を受けて放課後になる。
「見つけたわ」
裏門から出ようとした僕に、誰かが声をかけてきた。あたりを見渡しても誰もいない。再び歩き始めると何か降ってきた。思わずキャッチしてしまったけど、僕はその行為をとったこと自体、手の中にあるものを見てすぐに後悔する。布みたいだなと思ったけど、ちゃんと確認すると握っていたのは、黒いブラジャー。男である僕が持っていて普通の品じゃない。手を放してすぐにそこらへんに捨てようとすると。
「今捨てたりしたら、変態って言いふらわすわよ。自分の人生をぶっ壊してほしくなかったら、そこで待っていなさい」
窓から叫んで、すぐに顔を引っ込める。ものの数分のうちに、昇降口から声の主がやってきた。僕はその人を知っていたのだ。確か一学年上の先輩。けど話したことはない。なんで話したこともない人が、自分とは違う学年なのかを知っているかっていうと、朝礼の時二年生の列に並んでいたからっていうだけ。
「これ、落としましたよ」
できるだけ見ないようにして、黒ブラを差し出す。僕だって男だ。あんまりそういうものを直視するといろいろと良くない。性欲とかそういうの。まれに中性的な顔立ちだから性欲が薄いって、思う人はいるらしいけどそんなことない。普通だ。感情は薄いけど感じるものは感じる。
「うん、ありがとう少年」
先輩が受け取ったものを鞄にしまった。わざわざあんなことをしてまで、僕のことを止めたりしたのだろう。何か話し始めるかと思ったら、唇に指をあてて何かを考えるそぶりを見せたまま僕の前に立ち尽くす。無言で見つめてくるので、沈黙状態とか行動の目的を知りたいっていう好奇心に耐えられなくなって僕は口を開く。
「何が目的なんですか」
やっと唇から指を話し、そのまま僕の方へと指を突き出す。その様子はまるで狙った獲物に対して鋭い刃物を突き付けるようだった。
「私は君と仲良くなりたいのよ。少年」
「なぜですか」
さっきから疑問をぶつけてばかりだ。でも仕方ない。そこまで交流のない人がいきなり絡んできて、おかしなことを言い出すから。これで何も考えず、はいそうですか。という人はまずいない。飲み込めないのだ、なんていうかあらゆる物が。
「私と同じものを感じるからよ、同族の気配というかそういうものを」
言っていることが、よくわからない。普通だったらここで適当な言い訳をするけど一連の行動を見る限りそれは絶対できない。きっと変質者扱いとかで警察に通報するんだ。普通は口に出すだけで何もしないんだけど。
「拒否権ってないんですよね多分」
「ないわよ。どうなるかっていうのはなんとなく想像もついてるでしょうし」
一応確認してみる意味で聞いては見たけど、無駄だった。というか心を読んでいるなこれ。あるいはすべて織り込み済みだったか。まんまと先輩の策略に僕は乗ってしまっていたとは。
「それで同族の気配を察知してから半年間、私は君のことを観察していたの」
「なんのために」
「まあすごい単純に言うと、助手を探すためかしら。立ち話もなんだから座れる場所へ案内するわよ」
聞けば、だいぶ返答はあらが目立っているけどちゃんと答えてくれる。自分の価値観を押し付けるだけだったり、人の嫌がることをするような人ではないみたいだ。僕はそのことを知ってちょっと安心した。
「でも、その前にちょっとまってちょうだい」
僕の腕をそういって掴むと歩き始めた。やがて体育倉庫の前で立ち止まる。用具係とか委員会に属していれば、備品のチェックとかで立ち寄る機会が多くなるんだけど僕はそのどちらでもない。当然彼らでなければ鍵はもっていないわけで。先輩も例外ではなかったらしく、針金を突っ込んで鍵を開けると中へ入った。僕には咎める権利も理由もないから一々突っ込まない。
「着替えるからあっち向いてて。見たら殴るわ」
「見ません」
否定してるのに信じてもらえないのか、ハンカチで腕を縛られ目隠しをされた。小窓の下に座り先輩が来るのを待つ。窓の外側は食堂の裏に面していたはずだ。だから学生は来ない。ゆえに人通りも少ないしここを覗き込むなんて言うもの好きは多分こない。やがて終わったのか先輩が目隠しをとってくれた。同時にハンカチもほどかれ腕の自由もきくようになった。
「さ、行きましょうかついてくるのよ」
先輩が勢いよくドアを開いた。暗闇に目が慣れてしまったせいで大して強くない日航が目に突き刺さる。目を閉じてたら先輩が歩いて行ってしまうと考え目を開けようとして細目になってしまった。もう先輩はいないと思ったけど鞄を持って立っている。
「無理しなくていいわよ」
結局先輩の厚意に甘えて目が慣れるまで待つことにした。ちょうどいい大木もあるのでそこに二人で寄りかかる。
※
眼の状態も良くなった僕は先輩に連れられて、彼女が行きつけの喫茶店にやってきた。行きつけ、って本人が行ったわけじゃなくて店に入ってからの行動でそう考えてみただけ。店員の女性の人とと少しばかり会話していたりとか。その時笑っていたしね。
「さて、とコーヒーでいいわよね」
「はい」
「待つ間に教えてあげる。少年は周りとなじまない。私も周りと距離を置いていてね。だから人の輪から離れている者同士 っていう感じたの。これが仲良くなりたいと思った理由の大きなもの」
端的に先輩が根拠を述べる。本当に半年間も僕のことをどこかで見ていたのだろう。でなければ馴染まないなんて言う感想は出てこない。教室であいさつされれば話すけどどれ以上の仲の人はいない。学校内で歩くときも基本は一人だった。
「少年を選んだ理由は話したわね。」
運ばれてきたコーヒーを飲みながら、彼女の話を聞く。分かってはいるけど苦い。そりゃミルクも砂糖も何も入れないから当然なのだけど。
「私の仕事を手伝ってほしいのよ」
「アルバイトしてるんですね」
「まあそんなところかしらね。少年に私の仕事を手伝ってもらうわけだけども。あらかじめ言っておくわね。ここまで来た時点で拒否の意思はないって私は認識してるから。仮に反論しても、認めないからそのつもりで」
「なんとなくわかってました」
一応そこら辺のことに言及して、教えてくれるってことは結構良心的だよな。本当に悪辣な人だったら、こういうことも絶対触れないだろうし。あと逃げるときとか。止めるために絶対一発殴るくらいのことを、してくる可能性も否定できない。
「先に思いついたのは仕事を手伝ってもらおうってほうね。それで後になってから、私はもう一つ知らなければいけないことがあるって気づいたの」
「はあ」
「少年のことをもう少し詳しく知っておかないといけないってこと。ストー……じゃなくて観察調査だけじゃ限界があるんだもの」
今なんか変な単語が聞こえた気がするけど、聞かなかったことにしよう。というかここまで見てきた先輩の性格からして、言っていないことにして強行突破し始める。多分僕相手の会話であれば、黒いものですら白いものだって言いだすはずだ。で、そんなことを僕が考えていると指を折り何かを数える。白くて長い美しい指。
「じゃ、少年に対して接触した理由も伝えたから、次は仕事の内容について話すわね。私の仕事は何かを調べる仕事よ。今の仕事は自殺した学生の調査。ほら少年のクラスにいたあの娘」
「覚えてます」
件の娘だ。僕が訃報を聞いても、特に感じるところがなかった。あの後も色々言われた。寂しくないのかとか悲しくないのとか。僕に対して、直接言ってくるわけじゃないけど泣けないのは、人じゃないって。
「知り合いだったりするの?」
「名前を知ってるだけです。話したりっていうことは特にないです」
「そうなのね」
そのことを伝えると先輩はまた沈黙した。店内には僕たち以外にも何組か客がいる。思い思いの話をしているみたいだけど、こっちまでは聞こえてこない。
「そう。特に関連があるわけでもないのね。というか関連があるとしたら、私とこうやって会話している間に泣いたりしてるはずだもの」
あるいは会話そのものの継続が困難だとかね という結びの言葉を付けて意見を述べた。
先輩は少しばかり首を傾けて、姿勢がいいとは言えないが目線はまっすぐに僕へと向けられている。というか、ここの店に入ってからそうなんだけど僕が話している間、ずっと手の動きを止めていてコーヒーを飲むということすらしない。話を集中して一語一句聞き逃さないとばかりに。
「何か感情が薄いのかなって」
「そうみたいね。でも気にすることはないと思うわ」
「先輩は特に咎めたりしないんですね」
「ええ。だってそれだけなら、否定したりするような事柄じゃないもの。けれど少年が間違ったことをやるっていうんであればきちっりと否定はする」
ある意味はっきりとした人だ。そして盲目するわけではない。なんかはじめて言われた気がする。気にすることはないって。心なしか楽になってきた。
「じゃあ明日から、私のことを手伝ってもらうわ。少年のこと、つまりは心の内を知ることもできたし」
「先輩は僕のこと、どこまで知ってたんですか」
「基本的なことだけよ。何組にいて登校時間がどれくらいとかそれくらい。何を考えているかとかどう思っているかなんていうのはヒヤリングの段階で聞くべきことだから」
伝えることを話しきると残っているコーヒーを一気に飲み干してしまう。かなり時間がたっている。ゆえにだいぶぬるくなってるから可能なんだと思う。
「さあ今日はもう帰りましょうか。忙しくなるからゆっくり眠るのよ」
僕も残っているコーヒーを飲んで二人で店を出る。住んでいる方角が違うので一緒には帰らない。別れの挨拶だけを告げて歩き始めた。
2
朝、登校してからは別に変わったことはなかった。それは放課後変えるまではずっと一緒なわけで。昨日僕にすさまじい印象を植え付けてきた先輩は全く姿を見せない。昼休みにでも来るのかって思ったけどそんなこともなくて。
「逃がさないわ」
「そんなことしないですよ」
帰ろうとしたら、下駄箱で先輩が待ち構えていた。腕を組んで玄関の柱に寄りかかって僕の動きを見張っている。どこか笑顔を浮かべて楽しそうに見えるのは気のせいかな。
「履けた?」
「はい」
革靴だからすぐに掃ける。紐を結ぶわけでもないし。でも先輩はスニーカーで学校着てるみたい。別に高速で指定されているわけじゃない。推奨されているだけで。そういう僕も本来はネクタイ結んで学校に来ないといけないところをしないで来ているから先輩にどうこういうつもりはなかった。そもそもブレザーの制服がある学校に、真っ黒なセーラー服を着て登校してる時点で、誰に言われても聞き入れると思えないし。
「先輩、スニーカーで学校来てるんですね」
「ああこれね。柵乗り越えたりはしったりするときに革靴だと不向きだから。本当はブーツとかにしたいけど」
昨日の喫茶店を目指す道すがら、二人で話す。並んで歩くほどのスペースがないので先輩が前を歩き僕が後ろに回る。
「少年、男は先導して歩く必要は必ずしもないのよ」
「なんでですか」
「後ろに控えて背後からの脅威から守ることもきっと必要だから。それに今回はに改名の場所だから慣れていないっていうのもあるわね」
どちらの理由にしても、至極もっともなものだった。非の打ち所がない、なんて言ったら言い過ぎ、過大評価だろうけど理由がちゃんとしているから。ある意味で発想の転換みたいな話。
前を歩く先輩、後ろを歩く僕とでたわいない会話をしながら店まで歩く。横に並ばずとも会話くらいなら苦労しない。
「今日はね依頼人に、来てもらってるの」
「なら急いだほうがいいんですか」
「そうでもないと思うわ。急ぐのも大事だけど急ぎすぎた結果、事故だとか怪我だとかになってしまったら元も子もないから」
時間に余裕があるってことか。ゆっくり歩けるってことはいいな。焦らなくていんだもの。パニックになることも負われることもない。心にゆとりができたので、周りの風景を楽しむ。頬をなぞる風がとても心地よかった。
※
僕はあの喫茶店で、先輩の隣に座っている。代わりに正面には今回先輩に調査を依頼してきた女の子の姿があった。
「あなたが今回の依頼者ね。名前はプライバシーのこともあるから、本名じゃなくてもいいわよ」
「ありがとうございます」
昨日よりも、出ているものが豪華だった。コーヒーとケーキのセット。とても美味しそうだ。
「隣の方は誰ですか」
「助手よ、雇ったの」
「はじめまして」
先輩に促され、挨拶をして僕は頭を下げる。
「あなたのお姉さんと同じクラスだったみたい。けれど話を聞く感じ面識はそこまでなかったみたいだけれど」
「そうですか、お姉ちゃんと……」
僕と先輩を交互に見て紙面に目を落とす。大体の依頼内容とか、個人情報取り扱いみたいな書類。そして目を伏せた。しばし沈黙。僕も先輩も黙ってもそれを見守る。彼女が話そうと思うまで待つのだ。そもそも実の姉が自殺してしまったのだから、つらつらと喋れというほうが酷なのかもしれない。
「……お姉ちゃんはどんな存在でしたか。あなたの眼から見た印象だけでいいんです」
意を決した様子で喋り始めた。若干声が震えている気がする。
「クラスの中心グループにいるような娘だなって。いつも笑顔でした」
面識があるわけじゃないから、こういうありきたりなことしか言えない。そもそも同じクラスだからといったって、それだけの関係だった。住む世界も見えている物も感じ方も絶対違う。人の輪から外れてグループにすら混じらずにいる僕との接点なんてない。
「やっぱりみんな同じような、印象を持ってたんだ」
「だから、納得できないのね」
それまで口をつぐんでいた先輩が口を開く。依頼者たる妹は黙って頷く。何回も。目を閉じた状態で。
「そんなに楽しくて、みんなに愛されていて、仲良くしてくれる人もいたのに。なのになんでお姉ちゃんは死ぬなんて道を選んでしまったのかなって」
「警察も遺書があるから、それ以上のことは調べなかったのよね」
「はい」
「死因は踏切に飛び込んだ鉄道自殺。で、いじめられている痕跡もなし……」
少女が頷き紅茶を飲む。先輩はそれまでずっと目を離さなかった。が飲み始めると僕のほうへと視線を移し
「見ときなさい、って言いたいけど結構きつい記述もあるから無理はしなくていいから」
顔を近づけて小声でささやくと紙を渡された。そこには遺体の状況やら死亡推定時刻など警察の捜査情報のようなものが記述されている。確かに人によってはきついと感じるものだった。でもなんでこんなものを先輩は知っているのだろう。聞きたいという僕の考えを察したのか親指、人差し指、中指を立てて僕のことを制する合図を出した。
「分かったわ。彼女がなぜ死を選ぶことになってしまったのか調べてきます」
「妙なことお願いしてすいません。ではこれで」
立ち上がって頭を深々と下げた。店の外に出て行ったのを確認してから先輩は僕の疑問点に答えてくれる。
「少年の疑問に先に答えておくわね。私の従姉のお姉ちゃんが警察に出入りしてるから情報がもらえるのよ」
「いろいろ問題になりませんか」
「なりかねない部分は弾かれてるし。そもそも、教えてほしい部分でまずいところは聞いても教えてくれなかったわ」
でも結構便利な立場だと思う。情報を手に入れるための手間がいくらか省かれるから。余った時間を別のことに回せる。考える時間が多分増えるんだ。その考えるのは主に先輩であって僕はサポート的な部分になるんだろうけど。
「じゃあ僕も帰りますね」
「そうね。家で考えるわ」
店を出て家へ向かおうとすると、先輩に腕を掴まれる。いつも先輩は突然行動を起こすから驚くことばかりだ。
「どこに行くつもりなの」
「自宅に帰るんですよ」
「だめよ、まだ終わってないんだから。これから集まった情報をもとにして推測をするんだから。私の家に来なさい。今夜は泊まるのよ」
先輩はさも当然と言わんばかりだが、先輩の家に行くだなんて落ち着かない。ましてや泊まるだなんて。
「あなたのこと信頼してるからよ」
「そうはいっても僕も外泊の許可とかもらわないと」
「じゃあ早くしなさい。あと間違っても女の子の家に泊まるなんて言っちゃだめよ。普通の人間であればその時点で騒ぎだして面倒なことになるし。もし嫌なら私が代わりにかけてあげてもいいから」
「自分でやります」
何か先輩の方でも策があるのかカバンの中身を探す。でもこれくらいは自分でやらなければ。携帯電話を取り出した僕は液晶画面に、母親の携帯番号を打ち込んでいく。このくらいの時間ならば家にいるかどうか定かではない。こちらのほうが確実につながる。
果たしてきっちり許可が出るかどうか。緊張の一瞬だ。
※
僕の心配は、杞憂に終わった。いや杞憂っていうけど多分心のどこかで女子の家に泊まるとか言わなければ、普通に許可は下りると思っていた。
「別に後ろめたさを覚える必要はないじゃない。そういうことをするわけじゃないんだし」
「そうですけど。いろいろと」
「いざとなったら、課外活動ってことで誤魔化すだけの用意はできるから、心配しなくても平気よ」
途中のスーパーで買った食材の入ったビニール袋の一部を、僕は持つことになって先輩の自宅へとやってきた。町のはずれにある高層マンションの一室。学校からは、電車で何駅か乗らないとたどり着けない。台地の上にあるから徒歩で行くには少々難があるような場所だ。
「さ、入って」
「おじゃまします」
先輩に促されて、足を踏み入れる。扉の奥は長い廊下だった。その途中でいくつか扉が存在している。トイレとか浴室とか物置だと思うな。
「少年の持っている荷物は全部冷蔵室に入れて頂戴」
先輩がすたすたと廊下を歩いていく。僕よりも後から入ったのに、もう靴を脱いでしまったようだ。僕も脱いでついていく。
「あれよ」
真っ黒い箱、要は冷蔵庫を指さした。レジ袋を下ろすと中身を取り出して次々にしまっていく。悩む必要がないので作業はすぐに終わった。入れ替わりで先輩画冷蔵庫の前に立った。慣れた手つきで、次々に扉を開けたり閉めたりして冷凍食品やら生鮮食品を仕分けて格納していく。
「ふう、これで全部ね」
「多かったですね」
「お客様を呼んだからね。そこに座っていていいわよ、遠慮しなくていいから」
キッチンカウンターの向こうにあるソファーを指さす。言葉に甘えて腰かけた。凄いふかふかして体が沈み込んでしまう。このまま横になったら寝てしまいそうだ。
「じゃあちょっと休憩ついでにルールを説明しましょうか」
「ルールって」
「そう。ルール。私の仕事を手伝ってもらうわけでそれに関することね」
棚から何かを取り出しコップに放り込んでお湯を注ぐ。軽くかき混ぜると僕の前に差し出してくれた。
「はい」
「ありがとうございます」
「で、ルールね。食事をこれから作るわけだけども、作り始めてから片付けるまで、それからお風呂に入ってからは事件に関する話とか自殺したこの話は控えるのよ」
飲みながら僕は先輩の話を聞いた。先輩も目を離さないので僕も彼女を見つめる。納得したので僕は頷いていた。
「物分かりがいいのね」
「別に反論する理由も、ありませんから」
理由を聞く必要はあるのかもしれない。けど今までの先輩の行動やらなにやらに比べれば比較的穏やかなものだし、
「ま、一応少年のためにも教えておくとね、疲れてしまうし精神を摩耗するのよ。人の生き死に関わることの話って」
「僕でも摩耗するんですか」
「するわね。誰だろうと関係なしに。特に少年は危険よ。感情の機微が薄い以上、無理だと思うのが遅いかもしれない」
一度区切ると、立ち上がって窓際に向かう。ガラスを指先でなぞった。普通は気障っぽいけど、先輩がやると絵になる。
「だから負担を減らすためにも冷却期間のようなものが必要なの。それを食事にかかわる時間に設定するってわけ」
ここまで喋り終えてから先輩が飲み始めた。ソファーに腰かけ、足置きに向かって足を延ばす。スタイルがいい故に色気も同時に持つのだ。先輩は僕よりも背が高い。別に気にするってことはないけど。
「何かしら、少年、私の体を眺めたりして。そういうことをするんじゃないのよ。その感情は今すぐ捨てなさい」
「別に……。先輩がきれいだなって思ってただけです。背も高いし」
「褒められたのは、悪い気はしないわね」
先輩が頬に指をあてると微笑を浮かべた。これまた芝居ががった仕草だけど先輩がやる分には違和感がない。きれいだし指も長いし。精緻な顔つきの頬に指が這う。その姿勢のまま僕のほうを眺めていた。僕はといえば、部屋の中を見渡す。室内のいたるところに本が配置されている。それがないのは一体化しているキッチンのそば、ドア、窓、テレビの後ろと横。ただテレビのすぐそばには、マガジンラックがあった。机の上にも入りきらない本が数冊置いてある。
「先輩の家は本がいっぱいあるんですね」
「そうね。両親の職業柄よ」
先ほどの姿勢、指を頬に這わせたそれを崩さず僕の会話に答えてくれた。動く気配ない。僕も足を延ばしたま動くつもりはない。少し疲れてしまったんだ。
「父親が大学教授。母親が作家ね」
立ち上がると本棚へと向かい、二冊取り出し僕に手渡す。片方は新書サイズの学術本、もう片方はハードカバー。剣を持った少年のイラストが描かれている。ジャンルは全く似ていない。
「二人が書いた本よ。まあどちらがどっちを書いたかの説明なんて不要よね」
「こっちのハードカバーのほうは知ってますよ。中学生の時好きでした」
「それ母親に言ってあげてちょうだい。喜ぶから。まあしばらくは帰ってこないからいつになのかまでは断定でいないけどね」
そういえば、両親の姿が見えなかった。いないからこそ僕を家へと招待してくれたんだろうけど。
「少年、ざっと見た感じ知ってる本は、どれくらいあるかしら」
「半分くらいは知らない本だと思います」
「そう。一時間くらいは休憩するつもりだから、少年が好きそうな本を選んであげるわね」
棚から文庫本を数冊取り出してくれた。自分が読む分も含めている。先輩が僕の隣にある小机に置いた本の後ろにある奥付を見ると、二十年以上前に出版されたものらしかった。本屋に置かれているのとを見たことはない。
「多分好きよ。ただ前衛的なところもあって、その後増刷はされなかったみたいだけれど」
「読んでみます」
ページをめくり読み始める。先輩が言っていた通りだった。結構好きかもしれない。話が中盤まで読んだくらいのこと。
「そろそろご飯を作りましょうか。少年も手伝いなさい」
「野菜しか切れないですよ」
あまり料理をしていない。米を炊くとかそれくらいなら時々やってるからできる。何かを食べたいから自分で作るってことをしないからだ。
「それくらいで十分よ。というか少年、ちゃんとご飯食べてるの? 両親と暮らしてるけど作ってもらってるとかかしら」
「まあそんな感じですよ」
「いいわ。食べるんであれば、作業を手伝う必要があります。否定は断じて認めません、いいですね」
「はい」
一言だけ答えると先輩はキッチンへと向かう。後手で手招きしてもらいついていった。野菜しか切れなくて十分って先輩は言ってたから多分やるべき作業はその前後くらいなのかな。
「あれこれ自分が何をするか、考えないほうがいいわよ。自分が決めたことならともかくそれ以外だったら一つ推測するだけにとどめておくことね」
「先輩、何か考えを読んでませんか」
「読んでないわよ。簡単なこと。こういう時少年だったらこういうこと考えるだろうなっていうのをシンプルに三つだけ出す。であとは運次第ね。別にいいじゃない外れたって。少年は怒らないでしょ」
特に害もないしなにかマイナスになるような、現象が起こるわけでもない。これで怒る人がいるとしたら相当沸点が低いのか、プライドがかなり高いかのどっちか。僕はどちらでもなかったって話。