低い天井
変わらない手順でコーヒーを淹れる。インスタントの粉末をマグカップに落とし、沸したお湯を注ぐ。次は、マグカップを持ってリビングにある、くたびれた緑色のソファーに体を沈める。一口、温かなコーヒーをすすると、高い天井の少ない染みを目で追う。僕の動作はなだらかな川の流れのように静かで一定だった。今までの人生の中でもうすでに何千、何万と繰り返した工程。精密で狂いを起こさない時計のように完ぺきで、生活に調和していた。この終わらない日々が始まった頃は困惑と動揺があった。だが、何度も繰り返す内に僕は自転車の操縦に慣れるように、自覚する前に生活を回せるようになっていた。
「よお、助けに来たぞ」
僕は十五個目の染みの星から、声の方に焦点を合わせた。調律を取れた瞳に映ったのは、部屋の暗がりで佇む、尻尾のない一匹の灰色のネズミだった。彼の髭は存在しない尻尾に反比例して長く、だらだらと垂れ下がっていた。
「俺はお前を助けに来た」
「なぜ?」
「それが尻尾のないネズミの役目だからだ」
十六個目の染みを探そうと天井へと意識を戻す。星を見つけようと瞳が忙しなく宙を彷徨う。
「そうか、わざわざありがとう」
感謝など毛ほどもしていないことが一瞬で分かってしまう、低く無機物的な声音が口から流れ出た。すると、ネズミは神妙な声で真剣に話始める。
「あのな、こうやって時間の中に置いて行かれちまった奴は救出が遅れると、お前のように病んじまうこともあるんだ。だけどな心配はしなくていい。元の時間に戻ったら俺たちが活動してる支援機関がちゃんとサポートしていく。カウンセリングやら、集団セラピー、農業体験、チーズ作りなんてもんでな。俺の奥さんはカウンセラーだから顔がきくし――」
「いや、」
僕はネズミの言葉を遮る。丁度、十六個目の染みを右斜め上に見つけた。
「いいんだ、僕は帰らないからさ。君にはせっかく来てくれたのに悪いけど僕はここに残るよ」
染みを一つ一つつ繋いで行けば星座が姿を現すかもしれないが、生憎、僕は星の知識を持ち併せてはいない。学ぼうとも思わない。
「ああ、だからな、お前のように精神がやられちまった奴を救うために俺たちが居るわけで」
ネズミは僕の言葉に困ったのだろう。小さく唸り声をあげた。
「あのさ」
コーヒーを一口飲み、その反動で欠伸をする。
「僕は別に病んでいないよ。むしろ、元の生活の時の方が病んでた。上手く人と繋がれないし、誰にも憶えてもらえない。常に一人で、その癖、他の人たちは誰かを心を拠り所にして生きてる。それを目にすればするほど、僕は自分が独りぼっちだって知ってすごく辛くなる。だからここの方が良い、誰にも憶えてもらえず、誰の心にも留まることが出来ない。それが約束された今の生活の方が」
「お前、本当にそれでいいのか?」
濡れた声をネズミは弱く出した。憂いているのか憐れんでいるのか、人の感情を理解できない僕にはネズミの心は分からない。
「ああ、僕は今のままでいい」
「なあ、一度だけなんだ。時間の扉を俺たちは無理やり開けてここまで来てるだから、お前を救いにこれるのはたったのこの一回こっきりだけなんだ。だから―――」
「今のままでいい」
僕は力を込めて言葉を放った。もう、何処にも行く気なんかない。何もする気なんかない。誰も愛するつもりもない。何もいらない。
「そうかい、分かった。元気でな」
その言葉を最後に、ネズミの声が聞こえなくなった。僕は、十七個目の星を探そうと、集中する。が、上手く見つけられず、結局彼が居た、暗がりに視線を落とす。そこにはただの暗がりだけが佇んでいた。いつもと変わらず時間が静止したまま闇があった。僕はまた、星を探すため、天井を見上げた。