優しいライオンくん
ここはマサイマラという、アフリカにある大きな大きなサバンナです。
いつものようにお母さんに連れられて、ライオンの兄妹が、狩にやって来ました。
でも、お兄さんライオンのプープーだけは、なぜか元気がありません。
というのも、昨夜お母さんから悲しい宣告を受けたからです。
「もうお前と一緒に暮らす時間は終わりました。明日からは、自分一人で生きていきなさい」
「どうして?どうして別れなきゃならないの?僕、ママも、妹のピピも大好きだよ」
プープーがいくら尋ねても、お母さんはそれっきり何も答えてはくれませんでした。
夢中で草を食べているインパラの群れを見つけると、お母さんはプープーに一人で狩をするように命じました。
プープーは何度も挑んでみましたが、どうしてもすばしっこいインパラを捕まえることが出来ません。
プープーのそんな様子を、しばらく何も言わずに眺めていたお母さんライオンでしたが、いきなりすくっと立ち上がると、インパラの群れの中へと疾走して行き、いとも簡単に大きな獲物を捕まえました。
妹のピピは、そのご馳走を早速に食べ始めています。
プープーも大喜びで駆け寄ろうとしましたが、お母さんが牙をむいて近寄らせてくれません。
昨日まで、あんなに優しかったお母さんなのに、すっかり態度が変わってしまっています。その時プープーは、そんなお母さんの目に、涙が光っていることに気がつきました。
「そうか、本当にお別れなんだ」
そう気がつくとプープーは、何度も何度も
振り向きながら、お母さんとピピのいる所から立ち去って行きました。
すっかり日が暮れてしまいました。
プープーは一日中獲物を追いかけ続けていましたが、結局一匹も捕まえることが出来ませんでした。
すっかりお腹をすかしたプープーが、トボトボと今朝お母さんと別れた場所まで戻ってきますと、そこにはまだあのご馳走が、ほんの少しだけ食べ残されていました。
淋しく、冷たくなったその肉をかじり始めると、なぜか涙がポロポロと溢れてきました。
「お母さん、ピピ……」
その時です。
近くのブッシュがガサガサとなったかと思うと、小さな子供のインパラが顔を出しました。
ブルブルと震えながらも、インパラの子供はその目を怒りの色に燃やしています。
「君のお母さんだったの?」
プープーは、すぐにわけに気がつくと、申しわけ無さそうに、うつむきました。
「僕たちが君たちに何をしたっていうんだよ。
それなのに、よくもお母さんを殺したな。
さあ、お母さんと同じように、僕も殺して食べちゃえよ」
プープーには、お母さんをなくしたインパラの気持ちが、痛いほどよくわかりました。
だってこの世でお母さんは、たった一匹きりの、かけがえのない存在です。
たまらない気持ちになってプープーは、逃げ出すようにその場を後にしました。
それから数年の時がたちました。
プープーもすっかり一人前の雄ライオンになっています。
しかしプープーは、母をなくしたインパラの子供のあの悲しそうな目が、ずっと忘れられないでいました。
インパラと同じ様に、草を食べて生きていこうと試みてもみたのですが、どうしても身体が受け付けず、すぐに吐き出してしまいます。
かといって、狩をしようとすると、あの目が邪魔をするのです。
「お前、ライオンなら狩をしろよ。情けない奴だな」
ハイエナやはげたかに馬鹿にされながらも、プープーはいつも彼らから、死肉を分けてもらって暮らしきたのでした。
しかしここ数日、プープーは何も食べていません。
ヌーやインパラの大群は、新しい草を求めて、遠くキリマンジャロの麓へと移動を始めたのですが、プープーは一足遅れてしまったようです。
「あーあ、お腹がすいたな。
何か食べないと、もう歩けそうもないや」
とうとう彼は、その場に座り込んでしまいました。
そんな彼のところに、脚を引きずりながら、一匹のインパラがやって来ました。
なんとそのインパラは、あの日のインパラの子供ではありませんか。
「君はいつかの……」
「ああ、また君か。結局ぼくは、君に殺されて食べられる運命だったんだな」
「僕は殺さないよ」
そう言いながらも、プープーはごくりと唾を飲み込みました。
「無理しなくていいよ」
それに、ぼく脚をくじいてしまったんだ。
怪我をした動物なんて、どうせここでは生きて行けないんだから。
さあ、いいからさっさと食べちゃえよ」
プープーは悲しそうな目で、そのインパラをじっと眺めているだけです。
「何してるんだよ。
それとも、僕が死ぬのをそうやって待ってるのつもりなのかい?
情けないやつだな。
早くしないと、せっかくの獲物を誰かに奪われても知らないからな」
プープーは、インパラの少年から目をそむけると、ポツリと小さな声でつぶやきました。
「あの日はごめんね。
君の大切なお母さんを……」
「もういいよ。
それに僕はうらんでなんかいないよ。
僕たちが草の命を貰って生きているように、君たちも僕たちの命がないと生きて行けないんだろ?仕方のないことさ。
そんなことより、さあ、早く食べろよ」
「僕は君を殺さないし、君を食べたりなんかしないから」
「そうかい。じゃあ、勝手にしな」
数日がたちました。
今日も頭上では太陽が、騒がしいくらいに照り付けています。
そして、とうとう可哀想なインパラの少年は死んでしまいました。
プープーも、空腹のせいで、もうすぐ深い眠りの中に落ちてしまいそうです。
それでも彼は、決してインパラの少年を食べようとはしませんでした。
バオバブの木にもたれ、ぼんやりした頭で彼は考えていました。
「なぜ、生きていかなきゃならないんだろう」
葉を揺らせ、風と楽しそうにおしゃべりをしていたバオバブの木でしたが、そんなプープーに気がついて、話し掛けてきました。
「おーい、おーい」
プープーは遠ざかる意識の中で、バオバブの声を聞きました。
「君は死にたいのかい?はやくそのインパラを食べたらいいじゃないか」
「他の生物の命を奪ってまで、僕は生きていたくはなくなったんだ」
「おかしなことを言うんだね。
君の命は、君だけのものじゃないんだよ」
プープーは首を傾げています。
「君も、この僕も、そのインパラも、土も空気も、みんなひとつに繋がった、同じ命なんだよ」
「どういうこと?」
「だからさ、たとえば僕は、君に見えてる身体だけの存在じゃないってこと。
根っこは地面と繋がって、地中に蓄えられた雨水やたくさんのエネルギーを貰っているし、この葉っぱで太陽のエネルギーを貰い、そして君たち動物と、絶えず空気を交換し合って生きているんだ。
だから言い換えれば僕は、大地や空気、太陽の一部みたいなものさ。
僕はみんなに生かされているし、それにみんなを生かしているんだよ」
「でも、君は他の生物を殺さないだろ」
「まだわからないの?
命が繋がっているってことは、みんな誰かの為に存在しているってことだろ。
僕は直接殺しはしないけど、君がやがて死んだら、土の養分となって僕を育ててくれるんだ。それは、僕が枯れて死んでしまっても同じことさ。
つまりさ、すべての命は、使命を持った生贄ってことなんだ」
「じゃあ、僕の命を君にあげるよ。
どっちにしろ、僕はもう生きていたくないんだから」
「じゃあ、好きにすればいいよ。いつかそのインパラが言ってたように、それは君の勝手だからね。
でもね、もうひとつ大切なことを君が気づいていないようだから言っておくけどさ、全ての命が繋がっているように、時間の中でも、ずっとずっと昔から、命は繋がって来たんだよ。
君のお母さんとお父さんに両親がいて、その親にまた親がいて……。
生まれてきたものは、みんな、そうやって受け継がれて来た命を、未来へと繋いで行かなきゃいけないんだよ」
「こんなに辛くて悲しくても?」
「それが命を持つものの運命だろ。
もらった命のために、みんな精一杯生きていかなきゃいけないのさ」
プープーは、ボアボブの木が教えてくれていることが、ようやくぼんやりとぼんやりと分かってきました。
そして彼は、ゆっくりと身体を起こすと、もう冷たくなってしまったインパラの少年を、じっと見つめました。
「さあ、死んでしまったインパラの命を、未来に運んであげろよ」
プープーの目から、いきなり涙が溢れ出てきました。
その涙は、あとからあとからこぼれ出て、いつまでも止まりません。
そして、プープーは泣きながら、そのインパラの少年を食べ始めたのでした。
命は、今という時間の中で、ひとつに繋がって生きています。
そして、昨日と明日を繋ぐのも、その命なのです。
いつしか、ボアボアの木の上には、大きな月が顔を出しました。
月の光は広い広いサバンナを、分け隔てなく、ひとつに照らしておりました。