9くち 16
夫妻はイングリスのあの家まで同行すると提案したが、ダンケは頑なに許さなかった。明らかに夫妻を避けていた。
夫妻は兄妹にもダンケをよく見てやってほしいと頼み込んだが、兄妹の目を掻い潜って人知れず家から飛び出すのは、ダンケにはお手のものだ。自分が存在しないかのように行動する方法は、ダンケが一番最初にあの家で学んだことだったから。
北アイルランドの兄妹の家に迎え入れられ、二階の空き部屋に通されると、すぐに家を飛び出し、二時間もかけてあの家への道を歩いた。
誰もが、この問題児についてこう思った。
"ダンケ・イングリスを成熟した哀れみの情で止めることは出来ない。暴悪の限りを尽くされた世間知らずのこの子供は、暴悪の箱庭での人生をやり過ごす方法しか知らないのだ"と。
頼みの綱はバートラント以外にいなかった。
バートは飛ぶようにしてメルナード家にやってきた。
久しぶりに会ったダンケは、セミの抜け殻のようだった。心がもぬけの空になっていた。バートを見ても視線をくれるだけで、死期の迫った老人のように床に突っ伏している。
溶けてゾル状になったようにも見える。染みも滴も残さず、カーペットに滲んで消えてしまうような気がした。
「ダンケ、久しぶり」
「……」
「遊ぼうぜダンケ。楽しいことをしよう」
相手をしてやる気力なんてダンケには少しも無い。
バートにもそれが分かっていた。
いつも通りに、ダンケが返事をしてくれなくても一方的に話し続けた。
話題は底を尽きなかった。最近ではブロードウェイの舞台での活動が楽しくてたまらない。一か月前に初公演を終えたばかりだ。翌日の朝刊ではボロクソに叩かれたけれど。
多弁に振る舞うバートに、ダンケは寝ながら視線だけを合わせた。
彼は自分に好意的だ。
ダンケが信じられる数少ないことの一つだ。
だから体を起こす気も返事をする気も相槌をしてやる気すら無いけれど、視線だけは逸らさなかった。
どんな形であれ、彼に誠実さを示したくて目を合わせ続けた。
メルナード夫妻に見離されたらこの世の終わり。彼に見捨てられたら我が身の終わりだ。
「ダンケ、お前の家のこと、知ってるぞ」
バートは、いつまでも返事をせず目だけは逸らさないダンケに痺れを切らして、そのことを告げた。
ダンケの指先がピクリと動く。
「グランマとグランパから聞いたんだ」
「……」
「皆、もうお前を元の家に戻らないようにしてほしいって俺に言うんだ。お前がみるみる元気を失くすから」
「……」
「無理だよそんなの。家の中のお前と一生一緒にいなきゃならないもの。俺は外に出たいから嫌だよ。家の中のダンケといつまでも一緒にいられない」
「……」
「どうしてあの家に戻るんだ」
「……」
「あの家になにがあるんだ」
「……」
「ダンケ」
「……」
視線と視線が合わさる。
この時、二人はようやく、ただの親戚ではなく友達になれたと確信した。
温かな手が、横たわるダンケの肩に触れる。
「俺と一緒に行こうか」
「……」
「俺がいても、どっちにしろ、このままだとお前はダメになっちゃうよ」
「……」
「一緒にお前の家に行こう」
「……」
「一緒に外へ出るんだ」
「……」
「それで最後にしよう」
「……」
「いいな?」
瞼を閉じる。
忘れて久しい涙が、床に落ちていった。