9くち 12
没落した原因でもあるドラッグをそれでも辞めずに、貴族の教科書を回し読みしながら育った一族は、子々孫々に渡り薬漬けを続けていたが、その中で違ったのがダンケ一人だ。
ドラッグに染まっても子孫を大切にしようとするのがイングリス一族の特徴でもあったが、ダンケは生まれて間もなく親のイングリスに捨てられ、第二の両親であるイングリスもダンケをこっ酷く扱い、殺された母以外に、誰一人ダンケを一族として育てようとしなかった。
いや、母すら、ダンケを見捨てていたのかもしれない。
一族のルールとも言える習慣から逸れているダンケは、一族から浮いているが為に、悲惨な家の子供であるが為に、拠点ではない北アイルランドでも有名だった。
イングリスの子として、有名だった。
ダンケがそこに戻ってくる度、近所の住民は遠目に噂話を始めた。
「イングリスの血」「犯罪者の息子」「コカインロッカーベイビー」
どこから伝播したのか、普通だったら知るはずもない情報までも彼らは口頭で拡散し、その話が大袈裟になるほど、ダンケが戻る頻度も増えていった。
ダンケなりに、今の生活と昔の生活のギャップを薄める為に、バランスを取ろうと必死だったのだ。
メルナード夫妻の許での生活は、あまりに優し過ぎる。
しかしイングリスとしての生活は、あまりに惨過ぎる。
雨ばかりのこの国で、どんよりした空の下から見上げる我が家は、何故だか落ちついた。
この家でいつも通りに生活していた頃が懐かしい。ずっとここで暮らして来た。我慢して上手くやれば静かに生活が出来る場所。安心したい。ここでもう一度暮らしたい。今度は上手くやれる。どこに行っても疲れることばかりなんだもの。
そう思うある日のことだった。
近所の子供が、今日も昔の我が家を見上げるダンケに、遊びで使っていたペイント弾を撃った。
ダンケの頭部に当たって破裂したペイント弾から、塗料が飛び散る。
それを皮切りに、ペイント弾だけではなくカラーボールまでもが一斉にダンケに投げつけられた。
ダンケは慌てて納屋に駆け込んだ。背中や後頭部で弾けるペイント弾やカラーボールに「痛い」と叫ぶ暇も無く、最後はうなじに当たったカラーボールに押し込まれるようにして、納屋に飛びつき閉じこもった。
子供らは散々ダンケを罵った後に、塗料まみれになった彼を置きざりにした。
「はあっはあっ」
体中はあらゆる色で染まっているのに、頭の中は真っ白だった。
納屋は光も無く真っ黒で、モノクロの納屋の中で、ダンケは見えるはずもない掌の塗料を見つめていた。
ダンケが次に来た時、彼らは新しい名前でダンケを読んだ。
「ペイントボッド」
ボディーペイントのようなアートではない。
ダンケに対する侮辱を込めた名であった。
それでも、こんなことがあったのに、ダンケはその家から離れることが出来なかった。
この家が自分の育った居場所。良い思い出があるかないかではなく、ここに自分の過去がある。
ダンケ・イングリスと言う過去から、離れられない。あの頃の自分は、まだこの家に置き去りのままだ。
父を恐れ、母を頼らず、誰も信じず、自分を好まず、世界を知らず、何も見ることなく、耳を塞ぎ、うずくまって、納屋の中にいた。
あの時の自分がまだ、ここにいる。
今の自分がなにをしているのか。
それは多分、当時の自分が納屋から、この家から出てゆく姿を見たいのだろう。
彼はいつ、あの場所から出てゆくのだろう。
けれど、ここを出て行ったら、果たして次はどこへ連れていかれるのか。変化は疲れた。もうどこにも行きたくない。誰かに接近したいが、なにものにも呑み込まれたくない。
それらの想いが強くなるほど、ダンケは「この家に帰りたい」と思うのだった。
そんな時だった。
ダンケが八歳の頃だ。
流れ星のような奇跡や希望が、人の形を成して彼の許へ降って沸いてきた。