9くち 9
ダンケはこのことも、母に伝えることが出来なかった。
洗濯機を回す母の隣で、自分が汚したベッドシーツを抱きしめて、自分は健康体なのにいくつになっても排泄の制御が出来ない人間なのだと言うフリをしてみせた。
母はただ一人の敵でない人間ではあったが、秘密を打ち明け、助けを求められる味方ではなかった。
ダンケはまたしても両親を失うことになる。失えたと言っても良い。
彼からしたら、これまでの両親など、失えて正解の塵芥ばかりだ。
塵芥。これっぽっちの値打ちも無いゴミクズのこと。
何故両親を一度に失えたのか。
父がドラッグによる精神崩壊を起こし、母を殺害して刑務所へ送られたからだ。
父は頭を抱えて絶叫したかと思えば、脂汗をそこいら中に飛ばして、内股になって汚物と体液を垂れ流していた。
焦点の定まらない目をして、「うるさい黙れ」と繰り返し、どこに向かうかも分からない腕で、物言わぬ母を捩じ切るかのように乱暴に扱った。なにかに酷く怒り、同時に怯えているようだった。
ダンケが納屋に閉じ込められ、今日も忘れ去られていた日のこと。
母が長い出張から帰っきたばかりのことだった。
またしてもダンケを救ったのは、彼の泣き声だ。
家の中で父と母の絶叫が聞こえたかと思ったら、突然静かになって何時間も経った。もう夜になっていた。
訝しむような声と共に、数人の声が納屋の前を通り過ぎてゆく。緊張で息を殺して震えるダンケは、唇が切れるまで強く噛んだ。
少しすると、男性の叫び声がダンケにも聞こえ、足音がまた納屋の前を通り過ぎてゆく。
気が抜けて泣き出すダンケの声を聞いたのか、足音が一つ戻ってきて、納屋の扉がけたたましい音と共に開いた。
ダンケは驚いて絶叫して暴れた。絶叫する間に、制服を着た男性はダンケを抱えてその場から走り出してゆく。
その時、男性に抱え上げられた瞬間に、大切ななにかがダンケの中から抜け出てしまった気がした。納屋の中で蹲ったままの少年が、遠ざかるダンケには見えたのだ。
ダンケにはまだ、あの場所から離れる準備が何一つ出来ていなかった。
彼は地元の警官だった。近所の住民が通報したようで、父は指名手配された後にすぐ逮捕された。
その後、ダンケはイングリス一族と里親をたらい回しにされ、次に孤児院に入ることになった。二か月ぽっちで出ていくことになったが。
ダンケにとって、ここも地獄と大して変わりなかった。ろくに手足も伸ばせないコインロッカーの中や、薬物中毒の変態と暮らす家や、埃くさくて湿気で蒸した納屋よりかは待遇は大分改善されたが。
孤児院の職員達は皆意地悪だった。見えるところでダンケのことでヒソヒソと話し込むし、なにをするにも「あら、いたのね」と忘れられたし、子供達には夜尿症を毎日馬鹿にされて、「この場で漏らせ」と排尿コールを浴びせられたこともあった。
唯一の暇つぶしは孤児院の裏庭で捕まえた昆虫の解剖で、それ以外は"一人でぼんやりする"ことが日常だった。
一人で生産性の無いことをするか他人に虐げられるかと言う日常のおかげで、ダンケはこの孤児院を「最適な舌打ちの方法を学ぶ講習所」と呼んでいる。
自分ほど美しい舌打ちを奏でられる人間はいないだろう。
ダンケが唯一自慢出来ることだった。