3くち 2
「はあ…」
どうにかして帰ってほしい。
この兄とは一緒にいたくない。
このあまりに強烈な光の下では影すら掻き消えてしまう。
光が強いほど影は濃くなると言うものの、この兄の場合は影を作る障害物を灰にするほどなのだ。
マシューは"月よ星々の煌めきよ、太陽よ七色の朝露よ"と育てられて輝く存在から、苦々しい想いで目を瞑るが、賢明な頭では既に理解していた。
アメリカの哲学者兼心理学者、ウィリアム・ジェームズ曰く、「苦しいから逃げるのではない。逃げるから苦しくなるのだ」。
そしてマシューは、「既に起こっている事象の前からは、距離を置くことは出来ようとも真の意味で逃がれることは出来ない」と言うことも理解していた。
またしても観念するしかなかった。しかし、マシューからしたら「観念」と言うところを、バートはきっと、「挑戦」と言うのだろう。
これが彼と彼の違いだった。
これが彼と彼の積み重ねてきた経験と、そこから学んだことの違いだった。
「もういいよ。明日は休みだから、買い物に付き合うよ。今日はもう銭湯に行こう」
荷物を部屋の隅に置き、着替えを持ったマシューは立ち上がった。
「せんとー?…って、行くとこなのか?」
そうか、この男は銭湯すら知らないのか。
きっと「日本御作法大全」には載っているのかもしれないけれど、もうバートがあの本を読むとは思えない。だってそれよりずっと頼りになる日本通の弟がいるんだもの。
これから1~10までこの男に日本のあれやこれを教え込まなければならないのか。
これからの心労を考えると、懸命な判断としてウィリアム・ジェームズの言葉から目を瞑りたくなった。逃げてしまいたい。苦しいから逃げたい。
それでもやっぱり逃げられないから、マシューはまばたきだけに留めた。
「風呂屋」
「風呂屋?」
「そう。この部屋だけ風呂が壊れているから家賃を安くしてもらっているの。着替えを持て」
「そうなのか。日本の家は狭いだけじゃなくて風呂も無いのかと思った」
「今更そんな家無いだろ。銭湯だって絶滅しかけているのに」
「そうなのか。しっかし、安いにしても不便だろ。風呂代も馬鹿にならないだろうし。引っ越さないのか?」
跪いてキャリーケースから荷物を引っ張り出し、持ち運びしやすいデイパックに入れ替えているバートを見下して、マシューは言う。
突き放すように告げる。
「ここが好きなんだよ」
お前とは違ってな、と言うようだった。