8くち 20
バートは放心したかのように締まりのない顔をして、マシューを見つめていた。
マシューは時々まばたきついでに視線を逸らしては、視線を合わせるのを繰り返す。
「何か言え」と言おうとしたところで、ようやくバートの表情に変化があった。
まだ歩けもしない、どこへ行くかもわからない這い這いでこちらへ寄ってくる赤ん坊を見る父よりも、穏やかだ。
母に手を取られて、覚束ない足取りで前へ踏み出す子供よりも、くすぐったそうだ。
口元は弓なりに吊り上がり、瞳は柔く細められ、上がり切っていた肩は荷物を下ろしたばかりのように下がってゆく。
男は和やかなハニカミを浮かべていた。
「ああ」
その笑顔を見て、ようやく責められている気分になった。
散々口で言われたが、自分のこれまでの行いを責められたと感じたのは、この笑顔一つだ。
「…夕食にしようか。降りるよバート」
その笑顔の横を通り過ぎてゆく。
「ああ!なあ、今日はチキンスープが食べたいぜ」
その笑顔がついてくる。
「卵の期限が近いからあんかけうどんだバーカラント」
「あんかけ好きじゃない。俺のは卵うどんにしてくれ」
「俺が作る飯に文句を言うなら帰れよ!」
「いたいだけいて良いって言ったばっかだぜー!?」
バートを先に行かせて、マシューは屋上の扉を閉める。
最後に、プランターを一度だけ振り返って、鍵をかけた。
「いたいだけいれば」と言ったものの、バートが帰る日、マシューは諸手を上げて別れを告げるだろう。
言った通り、自分のいるべき場所に帰ってほしい気持ちは変わらない。
そうしたら、それからはバートが帰った後、日本で一人、多くの事を学び、日本人として生き、時には気が向いたら、貴重な時間を惜しむくらいの努力をしてみせ、やってみせ、兄払いの為に家族に手紙を書くようになるかもしれない。
ようやく、少しずつ、一人で乗った飛行機で何故涙したのか、最近になって忘れかけていたのに、前に進む為に座席のベルトを締めたと言うのに。それを乗り越える為にも連絡を絶ってきたと言うのに、鶴の一声でちゃぶ台は二転も三転もしてしまう。
お前が好きじゃないよ、バートラント。
「マシューッ、早く来いよー!俺腹減ったー!」
鼻を啜った。
「っ、今行く」
あーあ。
一人暮らし万歳。