7くち 3
「Hi」
挨拶はダンケの方が先だった。
「おはようダンケ。バートだ」
「知ってるってば。あとこっちは夜なの。時差が半日あるの」
「こんばんはダンケ。バートだ」
「だから知ってるんだってば、バガーラント」
画面の向こうのダンケは、今日も仏頂面ではあるものの、親身になって日本語の勉強に付き合ってくれた。
「英語と同じように、日本語もアクセントでいくらでも言葉が変化するわけ。雨と飴。傘と量。知ると汁。買うと飼う(かう)。とか、他にも色々ある。数えたらキリが無い」
「うーん…。マシューから聞いた助数詞の話をしたのに、いつの間にこんな難しい話に展開したんだ…」
「助数詞並みに難しくて扱いにくい日本語について、の話題になったから、アクセントを引き合いに出したの。他言語のアクセントによる意味の変化なんてどうせお前にゃ分かんないんだろうけど」
「うん、さっぱり」
「俺的には、英語の自由って意味のfreeとか、スモークフリーって意味のfreeとか、同じ綴りで違う意味の方がよっぽど難しいと思うけどね。前後の文脈ですぐに理解出来るけど、外国の人らは迷うんじゃないの」
「本当だ。全然意識したことなかったぜ。……あれぇ、俺、英語が母国語だけど、なんでそれらの意味を理解出来るようになったんだろう。頭悪いはずなのになあ」
「赤ん坊がなんで言葉を覚えるのかってことから教えた方が良いのかな。日常的に使うからだよ」
そんなことの為に用意された顔ではない、と主張するかのように、笑顔の為だけに整えられたバートの顔、特に眉間に皺が寄る。
ノートには、書き順も書き添えられた覚えたての単語がいくつも並ぶが、慣れない日本語をどんなに精一杯書いても、くちゃくちゃな文字が並んでしまう。
マシューに見せたら、彼は果たしてこの文字を読めるだろうか。
右利きの人が左手で書いたような、"とめはねはらい"が歪みに歪んだ、歪を極めた羅列だった。
「日本語を満足に使いこなすには相当な時間が必要だな」
思わず頬杖をついて憂いを帯びた表情をするバートだったが、深刻なことは一切考えていない。実はお腹が空いてきただけだ。そろそろ十二時だから。
「マシューはアメリカで四年間サーに教わって、今も本場の日本で学んでるくらいだから。バートだと途方もないね。一生無理かも」
「英語が恋しいぜ。スイスドイツ語をマムに教わった時はもっと単純だった」
「そりゃあ、英語と日本語じゃ言語形態が全く違うからね」
「んん、ダッドの母国なんだから、もう少し日本に興味を持つべきだったなあ」
「そんなに興味無かったんだ」
「まったく無かった。世界地図を出されてもどこに日本があるか分からないくらいだ。ロシアと中国とカナダとアメリカとメキシコとグリーンランドとオーストラリアは一発で指せる」
バートからすれば、日本は日本と言う国ではなく、父親を育み、マシューが今現在滞在している場所でしかない。
ニュースでふと日本の話を聞くことは何度かあったが、他の国のニュースも流されるのだから、余計に興味なんて沸かなかった。
日系何世や、人種や国籍が異なる両親を持つ知り合いもいるが、彼ないし彼女と日本語で話す用事なんて一度も無かったし、彼らは日本語より英語の方が得意だった。日本語が全く話せない日系人もいた。
今までバートにとって、日本とその国の人々は、外国と外国人でしかなかった。自らに日本人の血が流れていたとしても、アメリカ人のバートには他人事の世界だったのだ。