5くち 9
それが正しくないことくらい分かっている。気持ちがスッキリしても、一時だけで、家族を傷つけた罪悪感で後々消えてしまいたくなるはずだ。バートなんてマシューに殴り飛ばされたらそのショックで死ぬかもしれない。
自分が我慢していることは、きっと、お互いにとって正しいことだ。
けれど、お互いにとって正しくないことをしたバートを、お互いにとって正しいことをして守ってやらなきゃいけないのが苦しい。
"自分を傷つけた張本人に、ろくなことが出来ない自分が嫌だ。"
日和見で、当たり障りのないことばかり。
そんな自分が情けなくて恥ずかしくなってしまう。
それでも、そんな自分にせめてもの抵抗をしようと、マシューは言葉を使おうとするが、その言葉にしたって、満足に吐き切れた試しは無い。これもやはり、冗談でも激情でも言ってはならない言葉は、思い浮かぼうとも口に出すことは出来ない。相手の可哀相な顔を見るのが悲しい。
昔、アメリカで大喧嘩した時、振り上げた拳の先で恐怖するレイシストのクラスメイトの涙目を見た途端、なにも出来なくなった。言葉も出なくなった。自分の家族を馬鹿にされたのに、なにも出来なかった。なにかしてやりたかったのに。
憎くて仕方がない相手を、可哀相だなんて思ってしまった。
そうして、いつも、家に帰って声を殺して泣いていた。
この怒りをなににぶつけたら良いのか分からなかった。捌け口が見当たらず、ただ自分の中だけで激情が消滅することを祈るばかりだった。煮えたぎる苛立ちを自分の中だけで押し殺すことが辛かった。
そんな自分が情けなくて、恥ずかしくて、泣いていた。
正しくあろうとするマシューが、自分の為に立ち上がろうとするマシューに、言葉と拳で暴力を振るっていた。
「あ゛ーあ゛あ゛あ゛!バカバカバカバカバカ!バーカラントバガーラントバークラント!」
癇癪を起こした幼子のように喚き散らすマシューに、酔いが覚めたバートは、彼が何故壮絶な剣幕で激語するのか理解し、自分のしでかしたことに自分で引いていた。
こんなこと普段の自分なら絶対しないはずなのに。自分の家ではない場所で、許可も無くタバコを吸うだなんて行儀の悪いこと。
口を酸っぱくして教わった潔癖症の母に知れたら…。今になって叱られるだなんてごめんだった。
いやそんなことよりも、母よりも、マシューだった。
「ご、ごめんなマシュー、考えなしだった」
どこにやったら良いのか分からない手は虚空を彷徨うばかりだったが、視線はマシューに向けている。
マシューのベビーブルーの瞳は既に涙で濡れていた。
バートはまさか泣かれるとは思わず、ギョッと目を見開いた。