5くち 8
気づけば夕方だった。
マシューは白く濁る室内と、鼻をつく独特の刺激臭と、起きているのか寝ているのかも分からないが、ノートの上でボールペンを延々と走らせているバートを見て、今日一日の楽しかった出来事が蒸発して消えてしまったかのような呆けた顔をしたまま、その場にバッグをゆっくりと下ろした。
白む室内と同じように、マシューの頭の中も白く濁ってゆく。室内と違ったのは、すぐにその濁りが黒ずんでいったことだ。
今朝はあんなに気分が良かったのに。
彼に残ったのは、もはや疲労と不快感と、幾許かの気力だけだった。
その気力は前向きで建設的なこと、そう、部活と勉学の予習に使うつもりだった。
しかし、今からそれらは全て、後ろ向きで非建設なことの為に使われる。なんの役にも立たないことの為に消費される。
予定通りに生きることが好きで、それを狂わされるのが大嫌いなマシューにとって、また一つ大きなストレスが加わってしまった。
バートを叱る為の今日最後の気力を振り絞り、マシューは改めて周囲を見回した。
そうして。
「バートラント・メリカン・日国!」
マシューもバートも、フルネームで呼ばれるのが得意じゃない。
父と母が、マシューとバートをフルネームで呼ぶ時は、いつも"叱る時"だけだったからだ。
未だに、フルネームを叫ばれると、ギクッとしてしまう。
だからだ。バートは一瞬だけ大きく身を震わせたかと思うと、真っ青な顔でこちらにようやく気付いた。
テーブルの上には持参してきたのであろう、タバコの吸い殻と、それを受ける携帯灰皿が置かれ、酒の空き瓶が三本立っている。
頭が痛くなる光景に、思わず額に手をやった。ちっとも痛みなんて解消されやしなかった。タバコの匂いに酔って気持ち悪くなってきた。
未だ紫煙が漂う室内を見て、マシューはバートが来て数日たった今日、自分の生活が、人生が踏み荒らされていると痛感する。
神聖な居場所を穢された。マシュー・メルナード・日国の為だけの空間が踏みにじられた。
ああ、ちょっとでもこいつに…、気を許すんじゃなかった。
痙攣する指先を掌に押し込んで拳を作る。
行き場を求めている。この拳は、今、眼下の男の顔面へ行きたいのだと悲鳴を上げている。しかしそれを堪える。
本当なら、今頃眼科の男をボコボコにぶちのめしているはずの拳をめいっぱい握りしめ、脇を締めて垂らしたままにしている。
"自分の為に拳を振るう勇気が無い。人を傷つけることが怖い。どんなことをされたとしても、やられっぱなしで、意気地が無い。だから、怒り切れない。"
彼を叱りたいのではない。彼を怒りたい。全力の暴力で彼に怒りを投げつけたい。思い知らせてやりたい。




