5くち 6
「ホントに、海外に行く前に最低限の勉強はするべきだよ。自分の国の文化も言語も通用しない場所に行くんだから。マシューが怒るのも当然だね。自国の常識は他国では非常識になることもあるんだから」
「ケヘッ!」
「はぁ。この間送ったファイルに入っているアプリを開いて」
「分かった」
ダンケの職業は翻訳家。
バートは彼が果たしていくつの言語を扱えるのかさっぱり理解していないが、ヨルバ語も広東語もアイルランド・ゲール語も、読めない言語はとりあえずダンケに連絡をすれば、すぐに答えを教えてくれると思い込んでいる。
実際いつもそうだ。
今回のバート来日にしても、バートが家に一人の間、彼に日本語を教えることをマシューが頼み込むと、ダンケは二つ返事で首を縦に振ってくれた。
バートが海外へ行くことを恐れない理由の一つが、ダンケと言う協力的な後ろ盾があるからだ。
「カタカナのこれ、なんて読む?」
ダンケが送ってきたオリジナルの言語学習アプリケーションに、「ク」「ワ」「ケ」の文字が浮かび上がり、「ク」を囲む枠が赤くなり、更に矢印マークがついた。
バートは、ハンサムな笑顔の為だけに使われてきたような精悍な顔に、珍しく眉間に皺を寄せて険しさを加えた。
「…どれも"ワ"に見える…」
「一昨日教えたよ。細いのがなんだっけ?細いのを横に広くしたのはなんだっけ?一番画数が多いのはなんだっけ?ノートに書いて思い出して」
ダンケの顔の横に表示されている言語学習アプリケーションをマジマジと見つめて、それを真似してノートに書き込む。
書き順は指が覚えていた。他のことは忘れかけていたけれど、なんとか思い出せそうな気がする。
「画数が多いのは分かってる。そうだ、"け"だ。ケはけだ!」
「そう。出来るじゃない。じゃあ、今赤い枠に囲ってあるのはなんだっけ?」
ダンケが向こうから操作したらしく、「ケ」の部分にチェックマークが入った。
依然として「ク」は赤枠のままで、バートはまた考え込む。
「今"け"が解けたってことは、どっちかが"わ"なんだよ」
「消去法で考えないで。細いのがなんだっけ?」
「ほ、…ほそ……うーん……」
ノートに何度も"ク"を書き込む。ゲシュタルト崩壊を起こしそうだ。
「…あいうえおかきくけこさしすせそ…」
マシューからもダンケからも徹底的に叩き込まれて覚えたひらがなを繰り返す。
そして一昨日から教わり始めたカタカナのレッスンの内容を思い出して…、そして。
「"く"!どうだ!」
「そう。じゃあ、最後のはもう分かるね」
「"わ"だ」
「そ」
何故だか"ぶすくれた顔"をして、ダンケは次に発音のレッスンに入った。