さいごのヒトくち 12
家内から足音が近づいてきて、覗き穴をまず見るであろうから、外から覗き穴を覗いてやる。
すると、笑い声の後に鍵を開ける音がして、中から開けられる前にマシューの方からドアノブを先に引っ張ってやると、中から可笑しそうに笑ってドアノブを握るバートも引っ張り出されてきた。
バートはいつだかのことを思い出しているのか、いつまでもクスクスと笑いながら、マシューを見た。
「おかえり」
「ただいま」
これからここを離れると言うのに、そう言うバートがなんだか可笑しくて、マシューも口元を綻ばせる。
「上着はどうした?ネクタイまで…」
自分の上着をマシューに渡しながらバートは聞いた。
「色々あってさ」
「そうか、色々か。…卒業おめでとう」
「ありがとう」
上着を受け取ったマシューはそれを羽織る。
着ている途中、道中の桜並木で頭につけたままでいたのであろう桜の花びらが前髪から落ちてきて、掌で取ったマシューは、それを見つめた。バートもそれを見ていた。
視線を外して上を向くと、やっぱりバートも顔を上げて目が合う。
癖なのだろうか。目が合うと、彼はいつもカメラを向けられたアイドルのように微笑む。マシューも、最近はそれにつられて笑うようになっていた。笑えるようになっていた。
親指と人差し指の間に挟んだ花びらを、親指の腹で撫でながらマシューは再び口を開いた。
「日本旅行は楽しかったか?」
いつのことを思い出しているのか、少し気まずそうに笑って、バートは頷く。
「ああ。お前は?」
「とっても」
「なら良かった」
「…それじゃあ帰るよ。バート、先に行きな」
「ああ」
靴を履いて、キャリーケース二つを持って、バートが先に部屋を出て行く。
マシューはその背中を見送って、最後に、この部屋にも感謝が伝わるように、片手で支える玄関扉を撫でながら、一室を見つめた。
照明の消えた廊下の先の、からっぽの九畳一間。
ピカピカになるまでバートと雑巾がけをしたフローリングが、今日の陽光を部屋一面に受けて煌めいている。
最後の一滴を零す蛇口と、それを受けるシンク。
今まで擦っても落ちないから見逃してやっていた水垢も、今朝クエン酸を使って磨いて、今は鏡のように輝いている。
バートが靴を履いたから、最後の一足も消えた玄関土間。
バートに掃除を頼んだから、仕上げが少し甘い。
「……」
階下からバートの声が聞こえる。
「おーい、マシュー!行くぞー!」
マシューはその声に大きく返事をして、靴箱に鍵と桜の花びらを置くと、支えていた玄関扉から手を離す。
「いってきます」
玄関扉が閉まる前に、マシューは階下に向けて駆けだした。
その日、マシュー・メルナード・日国と、バートラント・メリカン・日国は、日本を後にしたのだった。