さいごのヒトくち 10
「もうすぐ公演だから、観に来てくれないかな、バート」
ポカンと口を開けて呆けたままでいるバートの口元が、静かにゆるりと弓なりに吊り上がる。
何故だか過剰に瞼をしばたいて、下瞼が持ち上がる。
「…良いのか?」
「僕が本当にやりたかったカフカを、見てほしい」
ニヤけていたバートは、堪えきれないと言うようにパーカーの胸元を握りしめ、めいっぱいの笑顔を顔面に貼り付かせて天井を仰いで、この感情のやり場に迷った。
応答が無いことを心配したマシューがバートの名前を呼ぶのと同時に、「急いで行くよ」と電話を切った。
その日、既にレンタカーを返していたバートは、マシューが徒歩で登校すると言う通学路を、走って志士頭に向かった。
スポーツジムに通っていても怠けていた体は以前よりも重く感じられるけれど、足取りはとても軽い。
冷たい風を全身で切り裂き駆けてゆくバートは、まるで発売日に予約したおもちゃを受け取りに向かう子供のように高揚して、冬の二月だと言うのに、服の下は発汗するほど火照っていた。
学校の受付の老父に許可証を貰い、飛び込んだ講堂の一番後ろで、バートは観た。
昨年の今頃着ていたカフカの衣装を纏ったマシューが、舞台上に立つのを。
一年生、二年生だけではなく、自由登校であるにも関わらず、三年生の多くが制服姿で、講堂に一直線に視線を投げかけるのを。
ネガティブの権化であるカフカにしては、やけに悲観的でないし、あまり張り詰めてもいないその芝居に、舞台がまだ終わってもいないのに無性に拍手を送ってやりたくてたまらなかった。
バートはその空間の全てに、魅せられていた。
幕が降りると、一斉に数百の拍手が舞台に向けて送られる。
その拍手の中、降りた幕の前に演劇部員達が集まり、皆で同時に深く頭を下げる。
マイクを持ったマシューは、例年通りに演劇部の最後の活動が執り行えたことと、自由登校であるにも関わらず集まってくれた三年生達や、一年生や二年生にも観劇してもらえるようにスケジュール調整を手伝ってくれた恩師達、脚本を提供してくれた花美先輩に向けて感謝の言葉を述べ、新しい部長が牽引してゆくことになる演劇部の宣伝と、卒業までの残り少ない期間もどうぞよろしくお願いします、と言う挨拶で締めて、もう一度頭を下げると、同じ三年生部員にマイクを回していた。
他の三年生達もスピーチを終えると、また特大の拍手喝采が講堂を埋め尽くし、演劇部員達はその中を何度も頭を下げて舞台袖へと消えて行く。
やはりここでも、バートの拍手は最後まで会場に残り続けたのだった。