さいごのヒトくち 9
…
マシューが学校へ行った後。
マシューが言うには、卒業式を終えたその足でアメリカへの直行便に乗り込むことになっている。
バートが来日した時に持ってきたキャリーケースと、マシューが帰国した時に持ってきたキャリーケースを床に二つ広げて、さて、と腕を組んだ。
前日に慌ただしく準備をして、いざ当日になって忘れ物をしたくないマシューから、今のうちに私物をまとめてしまえとのお達しだ。
今まで家のあちこちにあった私物を、洗面所から、キッチンの引き出しから、棚から、廊下の物入れから、広くない家中を歩き回ってかき集めて、ケースに詰めてゆく。
マシューのカードゲームコレクションとか外出用のバッグとか、バートの化粧品だとか、海水パンツにビーチサンダル、それに夏物の私服に日焼け止め、おもちゃに、あと医薬品も。
ワックスやらシェーバーやらは当日まで使うものだし、メモに残して当日に忘れないようにしておこう。
まずは、日本語と英語が入り混じるメモを取り、忘れないようにテーブルの隅の方にテープで貼り付ける。
次に荷造り。重たくて幅を取るものから詰めてゆき、小さくて軽いものを上に載せるようにする。
特に幅を取ったのがマシューの小説と漫画だった。洋書も和書もあって、和書を一ページ捲ってみると、頭がくらくらするほど大量の漢字が視界を埋め尽くす。
けれど、読めないわけではない。バートは時々、間違った漢字の読み方をして、来日直後はひらがなすら読めなかった頃を思うと、しばらく感慨に耽るのを繰り返した。
あー、そうそう、襤褸な、襤褸。
ボロって読めなかったんだよ、俺。
果たしていくつになったら書けるようになるのかは見当もつかないけれど、読めるようになったんだよ俺。
俺はこの漢字の読みを、いつまでも決して忘れないだろう。
多分。
それからしばらく。
三十分も和書と見つめ合ってしまっていた。
「はあっ、満足したっ」
いつまでもじーんとしているのを辞めて、さて引き続き荷造りに取り掛かろうと化粧品に手を伸ばしかけたところで、
「おや」
棚上の固定電話が鳴って、床にあぐらをかいていたバートは立ち上がり、受話器を取った。
「もしゅもしゅ、日国です」
アメリカにいる間は、電話を受けた時、かけてきた相手が名乗るまで自分から名乗ってはいけない、と母に言われていたけれど、日本ではマシューが電話に出るや、「お待たせしました、日国です」と言って出るので、それを真似している。
「バート」
電話口に聞こえたのはマシューの声だった。
機械を通しているからか、なんだかいつもより声が高い気がした。
「マシューか。どうした?」
「今から学校に来られないかな。志士頭に」
「……」
既視感。フランス語でデジャヴュ。それを英語にしたのがデジャヴ。
沈黙していた数秒の間に、バートの頭では昨年の「共演したことでのいざこざ」が一から十まで、"あ"から"ん"まで、AからNまでフラッシュバックする。
ついでに、今からもう少し先の、マシューが「舞台に出てくれないか」と頼んで、バートが「いやでも」と否定するところまでを想像して困惑するが、どうやら、それは取り越し苦労だったようだ。
そんなネガティブなことではなくて、ずっと良いこと。
役者であるマシューから、バートへの最後の贈り物だった。