16くち 16
マシューは言葉が出てこなかった。
どうバートに声をかけたらいいのか、なにも思いつかなかった。
これ以上、戻ってほしいと言えない。戻らなくて良いとも言いたくない。元気を出せとも、なんとか解決しようとも、思うだけでなんの提案も出来そうにない。
対面の男は、穏やかに絶望している。
あまりに冷静に、何事も起こっていないかのように、マシューと再会する前から、笑いながら零落していたのだ。
その対面の男・バートは、伏せていたそれを柔和なまなざしに変えて、黙り込んだマシューに向けた。
見ていられないと目を逸らしたくなるほど、完成された微笑みがそこにある。
窓の向こうから降り注ぐ陽光で、その笑顔が霞んで見えた。
「ああ、戻るだろうな。バートラントはそういう男だ。俺は舞台で生きて、家で死ぬような人間なんだ」
「そ、そうだ、お前が自分で天職だと言ったんだ」
「…そうだな」
何故だか、マシューは今、自分がバートにとんでもなく酷いことをしている気分になった。
バートに「言わせている」ような罪悪感が、重く胸に圧し掛かって息苦しい。
「決めるよ。今度日本からアメリカに帰ったら、時間はかかるだろうが、俺は舞台に戻る。他のどこにも行かないよ」
「……」
「頑張るから、マシュー、その時は、お前に客席から見ていてほしいなあ。それで、今度、また舞台から落ちるようなことがあったら」
「……」
「そのまま、舞台でバートラントを死なせてくれ」
テーブルの上に投げ出していた両手を、マシューは自分の膝の上に引っ込めた。
「頼む」
お互いにショックを受けていたのだ。
バートは舞台を嫌がった自分に。マシューは舞台を嫌がったバートに。
そしてこう感じた。
二度とこんな気持ちになりたくないと。
「ああ、分かった。分かったよバート」
「……」
「……」
「……」
「ごめんな」
「ああ」
バートに何も慰めの言葉をかけてやれる気がしなかった。
彼はこの件を、最初から、遅かれ早かれ良くも悪くも、自分の心の内だけで完結させようとしていて、そしてそれが出来てしまう男だ。周りの誰もがそれを知っている。本人ですら分かっている。
彼にとやかく言うのは、自己満足にしかならないのかも。
悪戯に彼を傷つけてしまうだけなのかも。
「それでも、僕はお前の…その、…いやいい。とにかく、また…こういう話をしよう。どうしても、戻ってほしいんだ。いいかな」
「うん」
「僕が望むことと、バートが望むことは違うのかもしれないけど、でも、…僕、本気だ」
「うん」
「立ち直れるかは分からないけど、見せてくれよバート」
「…うん」
「今の僕の目で、お前の舞台が見たいんだ」
今度は、きっと正しい目で兄を尊敬することが出来る。
今の自分ならそれが出来る。
出来るのに。
バートは瞼を伏せて、まるで眠りにつくように、静かに一度だけ頷いた。
今この時以上に彼の死を望むだなんてこと、これから先だってないだろう。
それ以上は、お互い喉が熱くてひりひりと痛むようで、言葉に詰まってしまった。
同時にアイスティーとアイスコーヒーを飲むと、二人してむせて、飲み物が次にまともに喉を通るまで、十分も沈黙していた。