16くち 13
そうだ。
公園に忘れ物をした。
多分、腕時計とか。
今ちょうど右腕にしているけれど。
なら他のものを忘れた。
枝毛の髪を一本くらい。
避けているのではない。
離れるだけだ。忘れ物をしたから。すぐに戻るから。
誰に言うでもない言い訳を並べて踏み出したところで。
「逃げるな!」
それ以上は進めなかった。
演劇部で鍛え上げた声量が石畳を震わせる。
マシューがいる方向からビリビリとした振動がバートの足まで伝って来て、動けなくなってしまったのだ。
「お前が僕を追ってきたんだぞ!」
背後からずんずんと足音が近づくのが分かる。
真昼間のニューヨーク。喧騒の中だと言うのに、風を肩でぶつ切りにして、大股で更に細切れに割いてゆくマシューの姿が、背中の向こうに見えるようだった。
「僕にお前を追わせるな意気地無し!」
「っ」
「聞いているのか腰抜け!」
「ぅ」
周囲の人々は一瞬だけこちらを振り返るけれど、厄介事を避けるように通り過ぎてゆく。
「お前が僕から逃げるな!」
人差し指を一語ごとにキツツキみたいにバートに突き立てて近づいて来る姿が想像出来る。
「僕から逃げるだなんて許さないからな!」
振り向くのにも一握り勇気が必要そうだけれど、バートには雀の涙ほどの勇気も無かった。
自分の舞台に戻る勇気すら失ってしまったのだから。
「二度と追ってなんてやらないぞ!僕から逃げたらお前はずっと独りぼっちだ!今後お前の周りには、お前の夢すら知らないようなその他大勢しかいないことになる!甘やかしの生みの母親も、いつまでも新婚気分の両親も、病み上がりでひん曲がりの次男も、お前の本当の望みや夢を知らないだろう!」
「………」
「探してやらないからな!一生日本で暮らして、アメリカには戻ってきてやらないぞ!二度と僕の家の布団で寝かせてもやらないし、銭湯にだって連れて行ってやらない!日本語もカードゲームも、お前が僕と関わって得たもの全てを取り上げてやる!日国デーも廃止だ!」
「………」
「聞こえているならこっちを向け、このバーカラント!」
力いっぱい肩を掴まれ、体を捻じられる。
振り返った先で、思った通り、マシューは凛々しい眉毛を吊り上げて、これまでで一番怒っていた。
仏の顔は三度を超え、堪忍袋の尾が切れて、怒髪が天を衝いている。
バートは沸騰した湯を飲んだような感覚を腹の奥底で感じて、眉間に皺が寄った。
日本のアニメーションのように、俯いて酸っぱい顔をした後、森をも突き抜ける多量の汗を不思議な効果音と共に発射するラッコの真似をするしかない。
成す統べが無かった。




