16くち 5
「スコットランドとか、アイルランドとかで使われている言語だっけ。それしか知らないけど」
「話者はどんどん少なくなっているけれど、俺が分かる言語のひとつ。一応、北アイルランド育ちだし、親戚と里親をたらい回しにされている間、スコットランドにもしばらくいたから、自然と身に着いたんだよね。あの人達、俺の愚痴はゲール語で言えば分からないとでも思っていたみたいだけど、単線的だよ。エジプト語だったら分からなかったのに、"俺みたいに"教養がなかったみたい」
「…笑った方が良い?」
ダンケは無視をした。
「言語は時代を象徴する文化だから、消滅しないように教科書を作る手伝いをしているのが今回の仕事。いつもなら、契約書とか手紙とか書籍とか映像の翻訳だけどね」
「そうなんだ」
「出来ることはやりたいわけ。これ以外に、出来ることがないから」
そんなこと、ないと思うけど。
ダン兄が他になにが出来るか知らないけどさ。
なにか、他にももっと、出来る人だとは…思うけど。
「バートに教わったんだ」
「…なにを?」
「"自分に実力と魅力があるって自信を持つ為には、それを常に全身で感じ取る必要がある"って」
いつだか聞いたことのある言葉だった。
「人には向き不向きがあるから、なんでもは出来なくて良い。なにかが一つでも出来るなら、それで充分だ。出来ることは多いに越したことはないけれど、そういうのは理想の話だから、今はまだ、ある限りの能力を伸ばして、出来ないことはそれを役割にしている人に任せるのが合理的だって。出来ることを増やす余裕が出来たら、理想に挑戦してみようってさ。だから、これが今の俺の役割なんだと思う」
「あいつ、そんなことを言ったんだ」
「うん」
頷くダンケよりも、キーボードを打つ指先の方が多弁だ。
ダンケが鳴らすタイプ音は、朝食(と見せかけた昼食)の時の厚かましさよりずっと大人しく、控えめで、けれど、ダンケとマシューの会話よりやかましい。
昼間の陽気な風が室内に舞い込み、ダンケとマシューが深く腰掛けるソファにも届いていた。
そしてそのソファにダンケと並んで座るマシューは、隣の彼が話題の誘導を行っているように感じた。もっと話すべきことがあるはずだと言うように。
だからマシューは、切られた口火に燃料を投下することを決めた。
話題を探していたマシューと、話題を決めていたダンケは、目的が一致していたのだ。
「なんだか、本当に羨ましいよ。そういう、前向きな気持ちを持てるバートのことが、今は純粋にいいなって思う」
「そうかな」
独り言ちるようにレースカーテンが棚引く窓を見つめていると、隣のダンケはその言葉に疑問を抱いたようだ。
猫背になって膝の上で肘を立てて頬杖をついていたマシューは、顔を上げる。