16くち 1
16くち「西から東へ追いかけて!僕から逃げるなバートラント!!」
昼間。
引き続きアメリカ。カリフォルニア州サンフランシスコ郊外。
バートとのドライブを終え、ベッドに倒れ込んだまま昼まで寝通したマシューがようやく起き上がる。
気候の穏やかなサンフランシスコでは、窓を開けっぱなしにしていても心地の良い風が流れ込んできて、気候だけではなくマシューの気持ちも穏やかになるようだった。
調度窓枠に野生のリスが降りてきて、彼だか彼女だかに「勝手なことをするなよ」と忠告をしてから部屋を出た。
フットライトが消えた階段を下りていくと、ベーコンの焼ける匂いがして思わず早足になってしまう。
バートがキッチンで料理をしている最中だった。
「おそようバート」
「ああおはよう。顔を洗ってからで良いから、ダンケを起こしてきてくれるか。家のどこかにいるのは間違いないから」
「じゃあ賭けをしよう」
バートは逡巡する間も無く、自信あり気に、フライパンを握る右手とは逆の左手で人差し指を立てた。
「ガレージに十ドル九十三セント」
「その九十三セントはどういう意味?」
「小銭の整理。マシューは?」
「うーん。一階の廊下に五ドル」
「よし、じゃあ探しておいで」
「今日は、前に作れなかったクランベリースコーンだぜ」と言うバートの言葉を背中で受け止めて、マシューはまずは顔を洗いに洗面所へと向かった。
ダンケはあっさり見つかった。
洗面所に入ると、化粧台のキャビネットに頭を突っ込んで丸くなっている男がいたのだ。
屈み込んで顔を覗くと、キャビネット内のタオルに頭をつけて静かに寝息を立てている。
「ダン兄」
揺すって起こそうと体に触れると、ダンケは野生動物のような俊敏さでビクリと体を大きく震わせ、目を見開き、体を起こそうと顔を上げるところで、棚板に強かに頭をぶつけて大人しくなった。
微かにカウンターテナーのような甲高いかすれ気味の呻き声が聞こえた気がした。
「ダン兄…」
保護したばかりの人慣れしていない猫みたいだ。
なんだか酷く哀れだった。
その後も揺すって声をかけてみたけれど、寝起きが悪くて不貞腐れているのか、動こうとしないダンケを跨いで顔を洗って洗面所を出た。
賭けは二人とも外れていた為、掛け金の移動は無いものと思われたが、結局「小銭が多過ぎるから、ダンケを見つけたご褒美ってことで貰ってくれ」と言うバートにセント硬貨をいくらか渡された。
その後、マシューは「お小遣いをもらったお礼」と言って、朝食(正確には昼食)前に外へ出てバーゼルの散歩を済ませることにした。
最初、バーゼルの巨体に引っ張られて自分が散歩させられるのではと心配に思っていたものの、バーゼルは車が通り過ぎても、向かいから別の犬が現れて相手が吠えてきても、大人しくリードを弛ませたまま、マシューの真横にぴたりとくっついていた。
お手や伏せも試してみれば言われた通りに行動し、よく躾けられているのが分かる。ただ、マシューが撫でてもその態度は冷たくツンとしていて、大振りの尻尾は地面の上で微動だにしなかった。
昨日バートとエスキモーキスをしていた時の満点の笑顔はどこにいったのか。犬の表情が豊かであることをマシューは知った。
ちなみにエスキモーキスとは、鼻と鼻を擦り合わせる鼻同士のキスのことだ。