4くち 5
「…ごめん」
「うん」
「それじゃ支配だ。奴隷みたいだ。今のバートに、害は一つも無かった。だって、服選びなんて、個人の楽しみにしか過ぎないもの。…僕の我侭が過ぎた」
「そうだよな」
「言い過ぎもした」
「ああ。でも、マシューに説教した俺も、絶対間違ったことをする。皆完璧じゃないからだ。だから、これからも意見を殺しあわないで、ちゃんと対等に話し合おう。見下さないで。尊重し合って。また気に食わないことをしてしまったら、理不尽じゃない程度に文句を言ってくれ。俺も言うことはちゃんと言う。日本とかアメリカ関係なしに、お前の感性でダサい格好をした俺と歩きたくないなら、素直にそう言ってくれ。議論が出来るのは健康な証拠だから、沢山話し合おう。な?」
「うん」
「よし、この話はおしまいな。付き合ってくれてありがとう」
日国家は家族で宗教も人種も国籍も異なる為、「多様性」と「画一性」のバランスには一等気を遣っており、一等寛容的であるか、もしくは無関心であるように言われている。
家族と言う組織としての画一性。個人としての多様性だ。
幼いバートとマシューを叱りつけた時の父曰く、「キミ達は各々違う個性と役割を持った人間で、決して同一ではない。個別の人間だから、私はキミ達を差別はしないが区別をする。区別された一個人として、わたし達家族と言う組織が共存する為の、秩序に則った自由について、考えてみよう。好きに生きるのは結構だが、組織と言うのは画一的でなければ、つまり、バランスが取れていなければ組織たりえないんだ。バランスを取る為に必要なのは、お互いがお互いを許し合い、もしくは理解し合えない事柄には無関心でいることだ。だから、他者への配慮を欠く無法的自由を叫ぶ愚か者に、日国の苗字を名乗らせることは出来ない。思うだけなら構わないが、それを口に出して表現するのは、寛容でも無関心でもない。言葉を使った無神経な暴力だ。私は組織のバランスを保つ為に、これを欠くキミ達を変えるか排除する必要がある。排除と言うのは、"この家に住む自由を取り上げてキミ達を道に棄てゆく"と言うことだよ。キミ達は真冬のその道で、真の自由を知ることになるだろう。…自由がいかに規則と許容が必要な権利か分かったかな。上手に扱いなさい。さあ、各々異なった条件下にあった人々が集った我が家で、健全な家族関係と、この家での自由を維持するにはどうするべきか、行動で示しなさい。心からよく頭を使えば、ある程度のことは許される」
更にもう一つ「被害者が一人で訴えても"当たり屋"と見分けがつかないが、客観的に成り行きと確たる証拠を知るもう一人も"不当だ"とするならば、それは事件だ」