12くち 9
更に、一人でいじけるマシューの部屋にやってきたバートが、自分が選んだおもちゃを「あげる」と自分に寄越してくるのだから、マシューは尚更兄を尊敬し、同じくらいに劣等感も感じるようになっていった。
受け取ったおもちゃを、後になって「きっとこれが一番欲しかったものだ」と宝物のように大事に思うほど、記憶の中の、泣き喚きながら引き摺られている自分の姿が際立つようだった。
バートに救われる度に、自分の惨めさを、振り返ってしまうのだ。
悔やんでばかりいる自分しか過去にはいない。
それを振り切りたくて仕方がない。だから日本に来た。
弱々しい自分を捨て去る為に来た。見たくもない自分を映してしまう歩く姿見のようなバートから逃げる為に来た。
それでも、こうして日本に来ても、どこに行っても、自分は変われないのではないか。自分なんてどこにもいないのではないかと思うと、マシューの目に涙が滲んだ。
この舞台こそが、望ましい最大のチャンスだった。
なのに、どうしてバートなんかに頼らなくてはいけないんだ。
これじゃあなにも変わっていないじゃないか。
この数年間の集大成が、今この時にかけられているのに。
それでも、マシューは変われなかった。
「…皆が兄さんを必要としてる」
僕は必要としていないけどね。困っているんだけど、お前が来るくらいならこのチャンスを手放したって良いくらいだ。
そう言えたら良かった。
背中に圧し掛かる他の部員からの視線さえ無ければ、きっと言えていた。
たらればの話をしたって仕様が無いけれど、言えていたんだ。
言えるんだよ僕は。
…でも、そうしたら、演劇部の皆は?
「頼むよ」
来ないでくれよ。
…いや、やっぱり。
電話越しのバートはもう一度思案するかのように沈黙してから続けた。
その沈黙がもどかしくてたまらない。
雲で首を絞められているようだ。
「なあマシュー」
「なに」
「皆のことなんて見捨てちまえよ」
「…は」
受話器を取り落とすかと思った。
「皆の意見は置いておいて、マシューの素直な気持ちを聞かせてくれないか。他のヤツがどうなったって俺は知らないよ。他人の卒業前のイベントが失敗したって興味ない。…なあ、お前だけの気持ちがほしいんだよ」
「……」
「マシューはバートラントにどうしてほしい。俺はそれに従う」
「……」
「お前の望む通りの俺でいてやる。だから聞かせてくれ」
「……」
「…分かった。周りが嫌だと言わせてくれないなら、このまま十秒黙ってくれれば俺は行かない。マシューは、俺が行きたがらなかったと言えばそれで良い。お前達生徒の舞台だ。部外者に主演のライトを当てちゃ、部活の醍醐味が損なわれるよな。幕を開けるも閉めるも自分たちでやるから意味があるんだ。俺は舞台に立つ為にセリフを覚えたんじゃない。お前と仲良くなりたかったからだ」
「……でも…」
「マシュー、いいか?自分の心の声は、どんな群衆の声よりも大きく聞こえていなくちゃならない。それが個性だからだ。そしてそれが正しいことなら、口に出してもなにより大きな声になるだろう。お前の周りが望むことは、お前の為になる正しいことか?それはお前の意見か?さあ、今から十秒だ」
時間が必要だった。
自分なりの時間がたっぷりと。
そうしたら、それが出来たら、なにかが変わるのかも。
けれどそんなことは、今この場で、兄を待つほかの部員にとっては残り少ない時間をドブに捨てるようなものだ。彼らにとっては今、一秒が惜しいのだ。十秒なんて長すぎる。
即決を迫られていた。
マシューは、"自分なりに考える時間が無いのであれば"と、深く呼吸してから受話器に吹き込む。
「バートが必要だ」
しかし今思えば、あの時の自分に必要だったのは、自分なりの僅かな時間よりも、既に決まっている正直な気持ちを、大切な人達に伝える為の、莫大な勇気だったのかもしれない。