10くち 23
…
夏休みが明けても、日本にいる間は年中夏休みのようなバートには感覚が掴めず、マシューが制服に着替えている姿を見ると不思議そうにしていた。
「今日も休みだろ?」
「今日から学校だよ」
学校に通ったことも無ければ、アメリカでの学校生活を傍から見ていた程度にしか知らないバートには、日本の夏休みなど尚更よく理解出来ないようだった。
「これからまた登校するようになるから、前と同じ生活に戻るんだよ」
「そうなのか。オッケー」
「うん。それじゃあ、行ってきます」
「気をつけてな」
今日も、亡き妹ベッラに供えたヨーグルトを食べながらマシューを見送るバートに、背を向けて出発する。
夏休み前のいつもなら、真っすぐ学校へ向かうマシューだが、今日は直進するはずの十字路を曲がった。
しばらく歩いて、また曲がる。再び曲がってもう少し歩けば、そのマンション前に到着する。
地上八階建て、鉄筋コンクリート造。南側を向いた太陽を望むバルコニー。白いタイル貼りの清潔感ある外観。
そこのエントランスに入り、今やすっかり顔見知りになりつつある、鼠色っぽい白髪を撫でつけた警備員と目が合った。
「おはようございます」
「おはよう」
オートロック設備のインターホンを押して、警備員とすれ違う頃に会釈して敷地内に入った。
次はエレベーターで七階へ。その七階に到着すると、マシューは顔を綻ばせた。
七階一番奥から二番目が、彼女の部屋。
その扉が開いたり閉まったりを繰り返しては、時々彼女が頭を覗かせて廊下を見回している。エレベーターのドアが開いて踏み出すと、目があった彼女に手を振った。
「おはよう」
彼女の目つきが変わる。
怯えているようだ。マシューにではなく、これから歩く外の世界に。
彼女はもう扉の開け閉めを辞めて、半開きの扉を支えて、近づいてくるマシューを猫背で見上げた。
「おはよう」
もう一度言うと、「おはよう日国くん」と小さな返事がやってくる。
彼女の髪はきちんと整えられ、爪も噛むのを辞めたのか丸みを取り戻し、血色は相変わらず悪いし隈も残っているけれど、その豊かになり、明るさが似合うようになった表情は、当初とは比べ物にならない。
綺麗になった。
「良い天気だよ。今日も暑い」
「うん」
彼女は未だ、玄関扉のノブを握り込んで離そうとしない。
「行ける?」
「ちょっと待って」
「いいよ」
制服を着るだけでも彼女にとっては重労働だったのだろう。
一日は始まったばかりだと言うのに、これから登校すると言うのに、既に疲弊し切った様子だ。
唇が戦慄くのを止めようと、口の中で歯を強く噛み合わせて、足元の革靴に恐る恐る足を入れる。
最後にカバンを持って、ぎこちなく外へ出てきた。
「ゆっくり行こう」
一杯一杯の彼女は無言で頭を縦に振ることしかしなかったけれど、それでも良い。
たっぷり時間をかけて、今日も彼女は前へ踏み出す。
彼女なりの時間をかけて、太陽の下へ踏み出す。
さあ一歩を踏み出そうとしたところで、
「家の鍵忘れた」
彼女は、家に戻る時だけは機敏で軽やかだった。