10くち 20
「じゃあ、また」
立ち上がり、去ろうとすると。
「待って日国くん」
喉が痛いのだろうか。それとも胸が痛いのだろうか。
彼女は苦しそうに胸を抑え、喉からひり出すように声を上げて、マシューを見上げた。
目の縁から滲み出る涙が、玄関の向こうから溢れてくる光で煌めていた。
大病を患っている。彼女は、間違いなく。
自分自身の優しさが命取りになる、非常に厄介な大病だ。
不備と悪意が蔓延り跋扈する社会で、良心を持ち優しくあり続け、都合の「良い子」でいる選択を取ると言うのは、自分を殺すのと同じ異常で素晴らしいことだ。
あの社会で、自主性を殺す「良い子」でいられる子供が存在する、と言うのは普通ではない。本来他人とは、都合の悪い生き物だからだ。
だが彼女は、悪にとって都合の「良い子」でいることは出来なかったのだろう。
自分と同じ「良い子」を悪に手を貸し殺すことが、彼女には許せなかったのだろう。
結果として、一番手酷い仕打ちを受けるのが自分だとしても、彼女は高潔でいることを望んだ。
そうして、反撃をするでもなく、自分自身をすり減らせるだけすり減らして、限界まで我慢して、ようやく自分を守る為、多くを捨てて独りになる選択をした。
生存本能。自己防衛だった。
これを病と言わず甘えと言うのは、あまりに惨い話だ。
甘えているのは、彼女を追い詰めた者たちではないか。
マシューはもう一度、玄関の土間に膝をついた。
彼女は涙して、マシューに本音を語った。
「もう疲れた。もう自分に疲れた」
「うん」
「こんな生活続けたくない。私も、また自分に自信を持てるようになりたい」
「うん」
「学校に行きたくないけど行きたい」
「うん」
「後悔したくない。でも、独りはもう嫌なの。ワガママだけど、でも…本当に寂しくて…」
彼女は彼女なりに前へ踏み出そうとしている。
外へ出ようとしている。
その意思を、初めて彼女の口から聞くことが出来た。
マシューは、彼女が自分に何を求めているのかも、理解出来た。
「僕がいれば良い?」
「いてほしい」
懐かしい思い出がふと蘇った。
ダンケと知り合う前だ。
マシューが風邪をひいた時、父は仕事で、母は我が子が汚した庭の掃除に出ていて、家の中にバートと二人っきりだった時のことを思い出した。
"「ダディ―とマミーも忙しいけど、バートは忙しくないから傍にいるぜ。別々の部屋にいなさいって言われたけど、やることが無いからマミーが外にいる間だけ、お前の部屋にいさせてくれな。紅茶でも入れて来るか?オレンジジュースもあるぞ。チキンスープもあるし、温めて来ようか。ああそうだ。ダディーが米を炊いていたから、それでミルヒライスを作ってやるよ。シナモンは多めにかけようか」"
"「いいから、ここにいて。話していて」"
"「ああ、いいぜ。バートが傍にいるぜ。大丈夫だマシュー」"
あれこれ手を焼こうと提案を寄越してくるバートだったけれど、マシューが望んだのは傍にいて話をすることだった。
手の込んだことなんてしてもらわなくて良い。一緒にいて安心させてほしい。傍にいて、いつも通りの笑顔を見て、なにも恐ろしいことなど起きていないのだと感じたい。
それだけのことなのかもしれない。
彼女が最初から望んでいたのは、これなのかもしれない。
マシューは深く頷いて、彼女の目を見て応えた。
「喜んで」
彼女のこんな笑顔は初めて見た。
その日、彼女は「もう少し話そう」と言ってマシューを初めて居間に上げて、風邪のことなど忘れるくらい、他愛のない話をして静かに過ごした。