10くち 9
七階の一番端から二番目にその部屋はある。
差し込み式の表札には、部屋の番号はあっても住人の苗字は無い。
その部屋のインターホンを押した。
しかしインターホンへの応答は無く、手すり壁に寄りかかって待つこと数分―――住人はようやく玄関扉を開けてくれた。
中から出てきたのは、元は美しい黒髪が、日焼けして焦げ茶色になった長髪の、マシューと同い年の女性だった。
目の下には前からちっとも変わっていない深い隈が、薄化粧の下に隠されている。
皺の無い服を着て、髪も少しばかり整えて、前よりずっと良くなった彼女が、マシューと一瞬だけ目を合わせたり逸らしたりを繰り返して、そこにいた。
「こんにちは」
「…こんにちは」
「昨日ぶり」
「……」
彼女は俯いて何も言わずに、玄関扉を開けてドアストッパーを下ろすと、先に上がり框に腰を下ろした。
マシューもその隣に座って、肩にかけていたバッグと他の荷物を膝の上に置いた。
「今日はカモミールティーを持ってきたんだ。水は買ってきたから、コップとスプーンだけ借りられる?」
「うん」
憔悴しきった顔の女性は頷くと、緩慢な動作で立ち上がり、歩き始めたばかりの赤ん坊のようにも、足が不自由な老人のようにも見える覚束ない足取りで、奥へと歩いて行った。
開けっ放しの玄関の外を眺めながら待つこと数分、同じようにのろのろ歩いてきた女性はコップを二つとスプーンを二本持ってきて、マシューより少し後ろに下がった床に正座した。
「はい」
コップとスプーンを差し出す女性の手は血色が悪く、爪先はガタガタだ。
最近整えるようになったらしく、これも、隈を隠す薄化粧や皺の無い服や整えられた髪同様、随分良くなった方だ。
それらを受け取り、冷たいカモミールティーを二つ作る。粉を入れて水を入れて混ぜるだけだからすぐだ。
自分のを味見してから、彼女にも渡した。
「うんやっぱり。紅茶専門店の専売品だけはある。美味しい。ほら」
受け取るのにも彼女には時間が必要だ。
恐る恐る、壊れ物を扱うとも毒味のされていない飲み物を犯罪者から受け取るとも言える仕草でコップを受け取って、飲むのにもこれまた時間を使って、ゆっくりゆっくり口をつけた。
飲み込んだ彼女の口元が微かに笑む。
「ありがとう」
美味しいとは明確には言わなかったが、それが伝わる控えめな笑みだった。
これが、二人の定位置で、恒例だ。
二人はお互いに対して、ほんの少しの哀れみと、深い親近感と、強い関心を抱き合うような仲である。
出会いは、夏休みに入るほんの少し前のことだった。