懺悔・二
判然云ってつまらないです。
さして広くもない或る庭に、巧く剪定され、行儀好くポーズを取る松と、百日紅とが仲良く天を仰いでいた。其の間には何の為だか、大きな、丸く尖った石が埋まっていた。更に其の脇には千両と万両とが、アクセントを付けるかの様に、赤い実を風に振るわせていた。僕は其の丁度良い按配が気に入ったので、書き掛けの論文を手にして石に座り、両方の木を眺められる様な恰好で、腰を下ろした。
懐中を探り、彼の高名な文豪である太宰が愛した“金の蝙蝠”を取り出し、マッチを擦った。白とも紫とも判別の付かぬ煙の上がるのをぼんやりと見詰め、手に入る論文を読み返した。何う見ても拙い論述は恰も哲学的でいて、其の実、全く心を感じない冷たいものであった。当たり前である。小説ではないのだから。学術的に書いた文章に心の在る筈が無い。其れだけならまだしも、実につまらなかった。之を僕が書いたのかと思うと、自らの命の価値を疑う必要が有ると判然判る。はて、僕は何時の間に此の世に生を受けたのか。其れすら今や思い出さねばならない。いや、実際に存在しているのかも怪しい。仕事柄色々な処へ顔を出す機会が有るので、早咲きの白い梅や紅梅の咲く美しさに触れるのだが、僕にとっては、其れは何も描かれていないカンバスを見詰める如くに感じるのだ。美しいとは世俗に云われる例えであって、僕にとっての感慨では無い。いや、ひょっとすると、僕の心が既に脈を打たぬのかも知れない。故に、何を観ても、例えば、美しき女人を見詰めても、或いは、彼女が寄り添って来ても、何うと云う事も無い。何も感じない。其の心で描いてしまった景色をこそ、僕は見詰めているのかも知れない。きっと、今現在に僕の心は無く、何時かのタイミングで落としてしまったのだろう。いや、棄ててしまったのであろう。然し、其の時に戻って見ても、僕は僕である。畢竟、遣り直そうなどとは、馬鹿の夢なのである。ならば、当に終わっているのだ。きっと、其れだけは本当だ。本当なのだ。……。
百日紅の花の咲く頃、僕はまだ生きているだろうか。呑み終わった蝙蝠を地面に擦り付けて一口の煙を吐いた僕は、やおら立ち上がり、実は白紙である書き掛けの論文を引き裂いた。何、問題は無い。凡ては此の頭に綴られているのだから。其れに、つまらないのだから、いっそ、こうして始末してしまった方が好いのだ。
小説を書こう。論文など糧にしか成らぬ。紙に成らない益の無い物語を書こう。そして、自身を嘲弄し、他者に嘲笑されよう。其れこそ、僕の目指す境地であろう。何も出来ないのなら、せめて、道化を演じよう。其れも又人生で在る筈だ。
僕は美しき庭に背を向け、何処へともなく歩き出した。
然し、一々気を衒う如くに何から何まで考えて書くのは愚作を仕上げるのみです。