15冊目 国王の権威
監査官は、賄賂を受け取ってはいけない。
……いや、監査官ではなくても、賄賂なんて受け取ったらダメである。
だが、監査官は他の職業よりも一層厳しい。
もちろん、その理由は公平な立場で審査しなければならないからだ。賄賂を受け取った場合、公平な立場で審査できなくなる危険性がある。
そのため、とある一定以上の金額の物は受け取れない。菓子屋の詰め合わせ程度の「お気持ち」なら貰っても構わないのだが、金銀財宝詰め合わせセットは流石に「気持ち」の範囲を超える。
だから、私は断ったのに。
喉から手が出るほど欲しかったのに、なんとか未練を断ったはずなのに!
「監査官様」
階段を降りている途中で、ふと上の階から声が聞こえた。名前を呼ばれたので、足を止めて顔を上げる。
その瞬間、バシャン!! っと、頭から冷たい水がかけられ、反射的に目を瞑ってしまった。
「っ、リディナ王女!」
ガルーダの声が飛び込んでくる。それと共に、がしゃんと何かが落ちる音、そして転がる音が廊下に響き渡った。
とりあえず、視界を開けようと服の袖で眼をこすることにする。そして、目を開けたときには、バケツだけが足元に転がっていた。顔を上げてみたが、誰もいない。いや、ちらりと女子学生のスカートが映る。ただ、瞬きした後には消えてしまっていた。どうやら、実行犯には逃げられたらしい。
「すみません、遅れました……」
ガルーダが、すまなそうに顔を歪めた。
彼の身体が、びっしょり水で濡れている。咄嗟にかばってくれたのだろう。私の頭にかかったのは一瞬で、残りはガルーダが身を挺して受けてくれたらしい。
「いいえ、大丈夫よ。護ってくれてありがとう。
……ちなみに、誰がやったか分かる?」
「はっきりと姿は見えなかったですが、クローディア嬢の御友人と似ていた気がします」
ガルーダが、苦々しそうな口調で教えてくれた。
私は、おもわず脱力した。がっくりと肩を落としながら、ぼそりと呟いてしまう。
「……どうして、こうなった?」
数日前、クローディアに呼び出されたとき、私はクローディアからの「賄賂」を受け取らなかった。
クローディアの部屋を辞した後、シルフィードが「あれは良い判断ですよ、姫様。姫様が、賄賂など受け取ってはいけません」と珍しく褒めてくれた。
私は、間違ってなどいないはずなのだ。それなのに、クローディアは何を勘違いしたのか
『そう、あなたは王族なのに子爵の娘の味方をするのね?』
と、このように怒らせてしまったのである。
彼女曰く
『分かっていたわ。あなたの母親は卑しい遊女ですものね。卑しい者同士が惹かれあうのは当然の理。尊い王族の血が流れても、薄汚れてしまっているのね。国王様の慈悲によって生かされているのに、王家に貢献しようとしないなんて……恥ずかしくなくって?
ええ、この部屋から出ていって下さる? 私、こんな屈辱耐えられないわ』
という理由らしい。
どうやら、クローディアは私が王族なので、我慢して付き合おうと考えていたそうだ。そんな彼女の好意を断ったため、敵認定されてしまったのだろう。
「ソフィーから敵役扱いは仕方ないけど、クローディア様からも悪役扱いなんて」
まったく、本当に嫌な話だ。
「敵の敵は味方」理論で、互いが手を組むことは……クローディアの性格上、ないと信じたい。手を組まれでもしたら、のちのち厄介だ。
「あー、私は本作りしたいだけなのに……なんで、こんなことに」
「姫様、嘆くのは後です。まずは、早急に部屋へ戻り、お召替えを」
シルフィードがタオルを渡してくれた。
私は軽く顔を拭きながら、部屋へと急ぐ。急ぎ足で廊下を歩いていると、ソフィーが取り巻きを連れて姿を現した。今日は、アルフォンス兄様の姿は見当たらない。代わりに、あの宰相の息子がいた。
「あっ、リディナちゃん! その恰好……ずぶ濡れ。転んだの?」
ソフィーは、とんちんかんなことを言いだしてきた。その視線は、まるで面白い見世物を眺めているようだ。不快なことこの上ない。私は言い返そうと口を開きかけたとき、ソフィーの姿が何かによって遮られた。
「っ?」
大きな背中が視界に入った。
ほどよく筋肉のついた頼もしい背中だ。赤銅色の髪が静かに揺れている。
「ガルーダ!?」
「……」
ガルーダが悪意ある視線から護るように、庇ってくれていた。ソフィーたちと無言で対峙してくれる。
「もう、ガルーダさん。仕事だからって、その人を……えっ?……ガルーダさんまで濡れてる? もしかして、リディナちゃん! ガルーダさんに水をかけてイジメてたのね! 酷いわ!!」
しかし、ガルーダの好意……いや、仕事熱心な行動は、どうやら状況を悪化させてしまったらしい。
ソフィーは、甲高い悲鳴を上げた。私の位置から彼女の顔色を見ることはできないが、わざとらしく青ざめているのだろう。ソフィーの取り巻きたちの怒りが、ガルーダ越しに伝わってきた。
「護衛騎士を無下に扱うとは、王族から除名されますよ?
いえ、それ以前に監査官としていかがなるものかと?」
バージルの冷たい声が、廊下に響き渡った。
他の取り巻きも、追従するように「そうだそうだ」「失格だ!」と声をあげる。まったく、公衆の面前で糾弾とは、はしたない。
さて、どうしようか? と悩んでいると、シルフィードが前に出た。
「そちらこそ、失礼ですよ。姫様は列記とした王族。これは、侮辱罪として王様に報告させていただきます」
「ふん、主人が主人なら従者も従者ですね。自分の都合の悪いことを聞き流し、あまつさえ訴えるとは」
「都合の悪いことを聞き流すのは、そちらも同じではありませんか!?」
シルフィードの声のトーンが、一段階上がった。
「さきほどの、アタランタ嬢の態度も貴方たちの態度も、王族を見下しています! これを侮辱ととらえないのであれば、なんと捉えるのですか!?」
「同じ言葉を返します。たかが従者の分際で、貴族に意見するなんて――身の程をわきまえなさい」
あきらかに、周囲の空気が悪くなり始めている。
なんとか、この状況を回避しなければならない。私は腹をくくることに決めた。
「シルフィード!ガルーダ!」
鋭い声で2人の名前を呼ぶ。
2人とも、主人である私のために――いや、各々が抱く野望の実現のためなのかもしれないが、それでも、私を庇ってくれて嬉しかった。
とはいえ、これの発端は私の問題。
いや、正確に言えば、私とソフィーの問題だ。ならば、私が解決しなければいけないだろう。
「2人ともありがとう。少し退いてくれる?」
「姫様!」「……」
「命令よ」
あとは、私がやる。
その視線を送ると、2人は2,3歩だけ横に移動した。ソフィーへの道が開く。案の定、ソフィーはバージルの腕に寄り添いながら、小刻みに震えていた。いまにも泣き出しそうな顔をしているくせに、紫色の瞳は嗤っている。
「御心配おかけしました。不足な事態がありまして、私が水を被ってしまいましたの。ガルーダは、私を護ってくれただけです。彼には申し訳ないことをしたと思っていますわ」
私も口元だけ弧を描きながら、ソフィーと対峙した。
「嘘よ! でっち上げに決まってるわ。貴女は無抵抗な人の腕を奪う鬼畜悪女なんだから!」
「ソフィーさんは、『罪には罰』という言葉を御存じですか?」
私は扇子を広げると、口元を覆った。
「彼は罪を犯しました。それを、私は助けましたが――罪は償わなければなりません。
彼の犯した罪に対して、絶対服従の契約と腕一本は軽すぎるくらいです」
「また、そうやって人を物みたいに扱うなんて! 刑を免除になった人の腕を斬るなんて、貴方こそ犯罪者よ!」
「ですが、これが事実」
ぱしんっと、私は扇子を閉じた。
「それに、国王陛下は私の行為を認めてくださいました。その証拠に、ガルーダは護衛騎士として働いています。
……貴方は、国王陛下の判断を疑うのですか?」
目を細めて糾弾したが、ソフィーの目は嗤ったままだ。ソフィーは口元を軽く抑えると、反論を口にしようとする。
「まぁ、怖い! 国王陛下まで誑しこむ――」
「いいえ、国王陛下の判断を疑ってなどいません!」
しかし、その言葉は取り巻きの女子学生によって遮られてしまった。
バージル含め、取り巻き一同の顔色が一気に悪くなっている。ソフィーだけが、私の口にした言葉の意味を理解できていない。
「ちょっと、ウェンディ? なにを言ってるの?」
「国王陛下の決断を疑うなど、臣下として恥じるべきことです」
ウェンディと呼ばれた女子学生が、必死に弁明をする。
さすが、階級制の世界。階級制度の頂点に君臨する存在を悪く言うことは、さすがに出来ないらしい。「国王を誑しこむ」なんて、王を軽んじている発言極まりない。だって、「王が、12歳の王女に騙されるほど賢くない」と言っているようなものだから……。
「そうかしら? いま、誑しこむとか聞こえましたが?」
「いいえ、ソフィー様は、そのようなことおっしゃっていません! 国王陛下の判断は正しいと言っておりました」
ウェンディが、ソフィーの言葉を庇う。他の取り巻きも、小さく頷いていた。ソフィーだけが不満そうな顔をしている。
……この危機に気づいていないのは、王に喧嘩売った子爵令嬢だけ、というところか。
「そうね、国王陛下の判断よ。きっと、私がガルーダの腕を斬らなければ、国王陛下が命令して斬り落としていたかもしれないわね。
……彼に下される罰として」
「はぁ? そんなこと、絶対にありえな――」
「おっしゃる通りです、監査官様」
ウェンディが率先して、私の意見に同意してくる。
本心はどうであれ、国王侮辱と言う罪を免れたいのだろう。私は笑みを浮かべると、優雅に扇子を広げた。
「納得してくださったみたいで、私も助かったわ。
国王陛下の判断を疑うなんて、それこそ死罪になってしまうかもしれないものね。あぁ、ソフィー様たちが疑っているとは思っていませんけど」
そのときになって、ようやくソフィーは危機感を理解したらしい。
紫色の瞳から笑いが消え、代わりに恐怖と怒りの色が浮かびあがる。見た目は可愛らしいのに、憎悪に歪み始めた瞳が容姿を台無しにしていた。
「……」
ソフィーは黙り込んだまま、私に道を開けた。
どうやら、この場は負けを認めたらしい。ソフィーに続けとばかり、取り巻きも頭をさげて道を譲る。
「それでは、みなさん。節度のある学園生活を送ってくださいね」
私は背筋を張り、堂々と彼女たちの前を通り過ぎた。
ソフィーなんて、所詮は小物。男を手玉に取ることができても、危機感を察することも出来ない。これなら、なんとか監査官の仕事をこなすことができそうだ。
だが、その安易な考えはすぐに打ち砕かれる。
たった1,2回の勝利で、油断していたのかもしれない。
次の日、学園にこんな噂が広まっていた。
『監査官が国王陛下の権威を借りて、女子生徒をいじめている』