大問題! アウロラ教国!
猊下の寝相は大層お悪いらしい。後ろにレイフェスがピッタリとくっついているというのに、彼は私の数メートルも前で天を仰いで寝息を立てていらっしゃる。
空も気温も変わらないこの世界では、一度寝てしまうと感覚でしか時間が分からない。ここで猊下達と出会った時点で午後十時かそこらだったはずだ。
あまり長く寝た気がしないが、その前に延々と教皇から教典の下らない話をされたため、計算も難しい。
しかし時計もなく、文明人もいないようなこの楽園では、時間の感覚など必要とされていないのかもしれない。
「レイフェスさん、いいですか?」
軽く彼女を揺すって起こす。あてつけのように揺れる胸が、なんだか起きていた時のイライラを思い出させる。
「一つ、いい?」
彼女は微動だにせず目を開けた。まるで最初から起きていたかのようで内心驚く。
「さん付けも敬語も必要ないわ。この世界は、神とその子以外に上下関係はないもの」
「そう……分かったわ。じゃ、改めてレイフェス、一ついい?」
「なあに?」
「今は何時?」
「それを知る必要はないわ。猊下を起こして差し上げて、リナリーベルト」
未知とは恐怖、それを私は再び思い出す。
この女が何を考えているのか、どういう意図で行動しているのか、無垢で無知な教皇以上に警戒すべき存在であることに違いはない。
私を寝込みの教皇に近づけさせるメリットが彼女にあるのだろうか?
だが、そんなことをいちいち考えて躊躇っていては性格を疑われる。言われた通りにする、これが円滑な人間関係の鍵だ。
「猊下、猊下、御目覚め下さい」
何事かをむにゃむにゃ言いながら、猊下はんーと大きく伸びをした。
「む、ナンジは……リナリーベルト。うむ、よくねた」
言いながら彼は二度目の欠伸をした。あまりよく休めている様子はないが、衰弱死するようなこともないはずだ。
「猊下、それで私は何をすればよいでしょうか?」
お世話係というのが今の私の身分であるが、果たしてそれが何をする仕事なのかも分からない。単純に考えれば身の回りの世話全般だろうが、これほどのVIPを前に単なる世話でいいのだろうか。
「きにせずともよい。ヨのそばにいて、ヨがのぞむことをするだけだ」
要はガキのお守だ。ちょろい仕事だが、もらえる金もガキの駄賃程度だったら私は一生ここでこんな寒い格好で働かなければならないかもしれない。
ともかく今日は一日、教皇の仕事ぶりを観察させてもらおうじゃないか。そうすれば日給ももらえる。
何より、真面目な風にしないとハングドマンを返してもらえない。どころか何かの罪を着せられてしまう可能性だってある。
今は、従順なフリをするのだ。
子供っぽく目蓋をこする教皇は、どこも見栄えの変わらない広い草原をゆっくりと歩いていく。
ところどころ木が生えているために見通しが良いとは言えないが、彼は一体何を目印に歩いているのか。
けれど進めば私にも少し分かった。甘酸っぱい果実の香りがつんと漂ってくる。
「リナ、ショクジだ」
「はい」
食事。
見れば一際巨大な木にラズベリーのような果物が無数についている。それを何人かの裸の男とビキニの女達が捥いで自由に食べている。
「ヨにミャクリをとってきてくれ」
「は、はい」
異世界に来てようやく異世界っぽい感じの物と出会えた気がする。デカいムカデだって、元の世界で作ろうと思えば作れただろうし。
デコボコした木は見た目とは裏腹に滑らかで、素肌でも容易く昇ることができた。聖樹とでもいうのだろうか。
枝に跨り、手あたり次第にミャクリと呼ばれる果物を捥ぎっていく。
房からブドウの実を捥ぎるほど簡単に取れるが、リンゴのように固く赤い実で、見た目は完全な球だ。
しかし、これをどうやって下まで運べばよいのか。木の上では捥いだその場で食っている男もいる。両手が使えずに木を降りるのは流石に難しい。
下の方をちらりと見る。その高さにくらりと頭が揺れる想いだが、それ以上に恐ろしいものを二つ見た。
一つは、男が口の中からおえっと多くのミャクリを吐き出し、それを皆で食べ合っている。
泥まみれの食べ物を食べたことくらいはあるし、日本でも固いせんべいをおばあちゃんが口の中で柔らかくして食べるなんて家庭があるくらいだから別に汚いわけじゃないと分かってはいるが、私にはあれは無理だ。
でもう一つは、体のありとあらゆるスぺースを利用し、手を使わずに運んでいる。
口以外にも人には鼻や耳に穴が空いている。それ以上の説明は不要だろう……。
あと、たわわな胸を使ってそこに挟んでいる人もいる。降りている途中に潰れた赤い果汁が体を汚しているが……あれを真似するのは少し疲れそうだ。
ああリナ・リーベルト、女を捨てるか恥を捨てるか、選ぶ時が来たらしい。さすがに地面に落としたものを猊下に召し上がっていただくわけにもいかないだろう。
……。
「どうした、リナ?」
「い、いえ、どのようにお運びしましょうか!?」
「そんなもの、すきにするがよい」
あゝ無情。
私は確かに女だが、女である以前にトレジャーハンターとして、いや探究者としての誇りがある。顔中木の実で埋め尽くしてみろ、生きて帰ったところで恥を曝すことになる。
そして自分の口から出したものを他人に食べさせるというのも見たくない。それが幼く無邪気な子供であると更に見たくなくなる。
ええい私の胸よ! 今まで特にコンプレックスは抱いていなかった、ほどほどの大きさの胸! その本気を見せてくれ、頼む!
肩と肘を中心によせて少しでも谷間ができるようにと踏ん張ってみる。なるほど筋はできているが、この間にものを入れ、そのまま木を降りるのは難しそうだ。
このビキニをうまい具合いに……。
私は今までの考えが全て馬鹿らしくなる新たな考えを思いついた。胸とビキニの間にミャクリを詰め込んで、普通に木から降りた。
フルーツのパットだ。これなら谷間にもミャクリが詰め込める。ははは。なんだか辛いな。
「猊下、これをどうぞ」
「うむ、したぎをつかってはこぶすがたをはじめてみた」
余計な一言だ、と睨みそうになったがぐっとこらえて、私もミャクリとやらを一つつまんだ。
噛んだ瞬間に口の中に苦味が迸る、だがそれは直後に強い酸味に変わって、困惑している間にほのかな甘みに変わっていた。
グレープフルーツに近いだろうか、しかしこの苦味と一緒に来る臭みのエグさ、外皮から放たれている甘酸っぱい香りとは程遠く、食物の臭いとはとても言えない。
教皇はそれを無表情で何個も食べていくが、同時に二つ以上口に含むことはなかった。恐らく漢方薬のような食べ物なのだろう。
猊下が次に何か言葉を発するまで、私もその場でいくらかのミャクリを食べることにした。
二人でミャクリを全て食べ終わった頃、教皇は私に真っ赤な舌を見せた。
「ではリナ、つぎはショケイのじかんだ」
「処刑?」
返事はなく、彼は再びミャクリ樹を通り過ぎて歩き始めた。
教皇は表情一つ変えずに言ったため、私は何かの勘違いかとも思った。
だが違うらしい。その証拠に教皇は自然と歩く速度が遅くなっている。
咎めはしない。幼くともその立場にある人間なのだ。どんなことをするかにある程度の予想はついている。
「……リナ」
「なんですか?」
「さむくはないか?」
「……今は大丈夫です」
「そうか」
こちらを顧みずに出た言葉は優しい。それを突っぱねると彼の背中は寂しそうに小さくなった風に見えた。
それは想像を超える惨状だった。
木の柱に逆さづりになった裸の男が、腹から臓物をまき散らした状態で絶命している。
「リナ、かたづけよ」
死体にくぎ付けになっていた私は、教皇の言葉を受けてようやく我に返った。
教皇の表情は相変わらず変わっていない、だが後ろから見る彼の姿は、少しだけ戦慄いているように見えた。
「……どちらへ?」
「おろすだけでいい」
目をひん剥いて絶叫したような顔のまま死んだ男の体に私は手を着けた。冷たくなった体、火薬のない純粋な死骸の饐えた臭い、これを嗅いだのはいつ振りだろうか。
男を磔にしているのは釘だ。高いところにある五寸よりも長い釘が足を貫き木に縛り付けているのだ。
男の体に触れぬようにして柱をよじ登り、私は釘を引っこ抜く。一本の釘が抜けた時点で、男の重さを支え切れなくなった片足が千切れ、男の体は落ちた。
頭が割れるような高さではないし、下は草原である。首が変な方向に曲がるだけで済んだ。
……嫌な顔の一つでもしたくなる。私は、人を死なせたことはあっても死体を乏しめたことはない。
木から降りて私は教皇をちらりと見た。彼はすぐに目を背けて、横に控える男に言った。
「そのほう、まいれ」
「はっ!」
命令が来ると同時に、男は一人の別の男の足に釘を突き刺す。
数人がかりで暴れる男を捕え、柱の上の方へと運んでいく。
「やめろっ! 放してくれ!!」
こういう叫びにはどうも弱い。聞いているだけですぐに止めを刺すか、助けてやりたくなる。
生への執着を剥き出しにする男は強いものだが、さすがに十人もの男が控えている中では彼も力を削がれているのだろう。
せめて念仏くらいは唱えてやろう、なむなむ。
「ぎゃあああああああ!! 放せ! 放せっ!!」
こういう存在を見る時、同情すると同時にどこか無様にも思う。いや同情自体が同時に人を哀れむ行為であり、それは他者を見下す感情なのかもしれない。
こんな非情な、恐ろしい現場に立ち会いながら、他者を見下す優越感に浸る……人はそんな生物なのかもしれない、それは紛れもない恐怖すべき事実だ。
もっとも、男が感じている恐怖は私のそれと比すこともできないだろう。今まさに死の宣告を受けようという場面で、のんびりと考えることも許されない。
「……デシーヴァをもて」
「はっ」
教皇が何かを言うと、別の男が巨大なフォークのようなものを教皇に渡した。
それは赤錆びている、血で汚れたような色をしていた。
「……猊下、一体それをどうなさるのでしょう?」
尋ねずにはいられなかった。いくら私でも、許される悪と許されない悪の区別はつく。
「ショケイだ」
体が大きく震えた。
だが、それ以上言葉を続けることはしなかった。
教皇が一歩ずつ踏み出す。磔になった男は足元から血が流れ、腕を他の男に抑えつけられている。
今なら分かる。死んだあの男は恐怖に目を剥き痛みに絶叫していたのではない。
「やめろ! 許さねえ! 許さねえぞ!!」
教皇を睨み、罵倒の言葉を浴びせ、死んだのだ。
教皇はその武器を、逆さづりの男の腹に突き刺した。
私は決して目を逸らさない。一つの確認のために。
返り血と悲鳴が噴出する中で、教皇も目を離さず、ショケイを続けていた。
男がピクリとも動かなくなったのを確認して、教皇は三叉を男に渡して、言葉もなく移動を始めた。
私はそれについていく。あえて私も言葉を出さなかった。
やがて教皇はぱたりと倒れるように眠りに落ちた。
俯せに倒れ、呼吸の音も聞こえない様子から、よほど疲れていることが分かった。
少年兵なら私も見たことがある。その中にも数種類あるのだが――
「猊下はお眠り?」
「……レイフェス、どこから?」
「処刑が行われたと聞いたから来ただけよ。処刑の後はいつもこうなの」
彼女は眠る教皇を慈しむように呟く。だがその優しげな瞳を、私は操り人形を馬鹿にする大人の目にしか見ることができなかった。
「いつもなんだ。処刑したくないんじゃない?」
「そうだとしても、しなければならないのよ。『教皇言語録』にもあるわ、教皇たるもの進んで自らの義務を果たすべきものである、とね」
「へー、私の国にはない文化だったわ」
「そういうものよ、ここではね」
言いながらレイフェスは教皇の傍で眠ろうとした。
「あ、寝るんだったら間に入っていー? 寒くてね」
「……、ええ、結構よ」
レイフェスを遮るように私は教皇の体を横向けにして、背中側に回った。
血に濡れた頬を拭うと、彼は少しだけ呻いた。
仕事だと、割り切って人を殺す少年なら、私は助けることもできない。その国の現状を変えることでしかそれを助けることができないからだ。
だが、したくもないのにさせられる子供がいる。傷つけたくないのに、したくないのに、しなければ死ぬ、そんな絶体絶命の窮地の子供は、手を差し伸べなければならない。
処刑をして疲弊するということは、慣れていないということだ。したくないのにさせられているということだ。
ならばこそ、私は何かしなければならない。
「……ん、あれは」
微睡みながら目に入ったのは、男に組み伏せられているスイートの姿だ。
「あそこにいる数人は、数日後に処刑される人ね。外で捕まって運ばれているの」
……おいおい。