異世界の青い大地、変身するリナ
目が覚めた私が感じたのは、うすら寒さだった。
まるで深夜の廃墟にいるかのような、隙間風の吹き込む中で、明りも何もない空間で毛布を探すような孤独。
そこは、一面の青い大地だった。
「なっ、なんじゃこりゃー!!」
(こ、ここは!?)
何の比喩でもなんでもない、空よりも濃い、群青とか濃淡と言われるような地面、罅割れや巨石、オーストラリアの赤い岩の荒野をまるごと青くしたような空間だった。
恐怖、不思議、謎、怪奇、あらゆるミステリーを探し世界中を旅してきた私だが、白い地面に緑の一面があっても、青い大地は初めての経験だ。
チューリップや蘭の花畑で一面の青っぽい大地は見たことがあるが、この不自然どころか、異世界のような場所に、不思議な昂揚と底知れぬ恐怖が沸き上がる。
この震えは歓喜とも恐怖ともつかない、是非誰かに私の目が恐怖しているか喜び活き活きしているか確認してほしいほどだ。
(おいリナ! 喜んでいる場合じゃねーぞ!? ここは俺達の元いた世界だ!)
夜のような黒の空を、一面の青い地面を見て、私は懐のハングドマンを取り出して、叫ぶ。
「この世界がハングドさんのいた世界!? 地面が青で空が黒! 人の肌は瑠璃色だったりするの!?」
(い、いやいや。ここは青い大地っつう、俺達の世界でも特別な場所だから……)
「なんて捻りのない名前! センスないわー」
(うっせ! 俺がつけたわけじゃねーし!)
ハングドマンの雑音を聞き流して、私は帽子を脱ぎながら再び周りを見渡した。
三百六十度、見渡す限りが青い大地だが、私の左方に人がいた。
どうやら、その四人は私達に状況の整理をさせてくれるつもりはないらしい。
四人が同じ、丸い兜と鎧を付けた兵士姿でそれぞれ身長+五十㎝くらいの槍を持っている。
中でも一人だけ馬に乗っており、丸いヘルムのてっぺんに雉の羽のようなものをあしらっている奴がいた。恐らくはリーダー格だろう。
「貴様、所属と階級を名乗れ!」
案の定、馬上の騎士が叫ぶ。それと同時に三人は私に長い槍を向けた。
ヘルムのせいで顔があまり見えず、表情のない口は堅く結ばれていた。
茶色い馬だけが、つぶらな瞳で私を見つめてくれている。動物に愛らしさを感じるのは私が急に孤独を感じたからだろうか、それとも現実逃避か。
「早く言え!」
馬上のが再び叫ぶと、三人は更にずいっと槍を私に近づけた。
距離はまだある。ざっと五メートル、重装の三人ならば走って撒ける自信があるが、馬とのかけっこで勝利するのは不可能だ。
――だが変身すれば、それすら可能になる。
『リナ、どうする?』
(地理は分かる?)
『三年半経ってる。戦国の世だから本当に分からん、三年半あったら三つは国が亡びるぞ』
(大まかな方向でいーから)
『ここは大陸の北西で、北から西にかけては何もない。南か東に走るのがオススメだ』
(……体力的に走るだけじゃ無理か。じゃー戦うしかないね)
何も言わず、私は右手から帽子を落とし、重い鞄を地面に落とす。
降ろしていた左手を胸の前にまで上げた。その手には、ローマ数字で十二、逆さづりにされた情けない表情の男が描かれ、ハングドマンと書かれたカードがある。
三年半の私の相棒、互いに苦を分かち合い、楽を知らず、へらへらと内面を伝えずに薄っぺらな外面だけで話し合ってきた友。
それこそが異界の力を――今となっては、この世界の力を、異常の力を得ることができる道具なのだ。
兵士が睨む中、カードから放たれた光が私を包む。
ああ、この感覚、何度やっても気分の昂揚が止まらない。
体中の衣服はどこかへ消え去り、代わりに関節が動くのに支障をきたさない程度、全身をミイラのようにロープが巻きつけられる。
そして視界が一気に広がる感覚。目玉はカメレオンのように飛び出て、時計の文字盤と同じ数字が刻まれているという。私には自由に幅広い視点を操れるだけだが、相当不気味な見た目らしい。
けど気にせず、私は変身した。
同時に四人の男は堂々と槍を担いで私に突進してくる。
(さて、まずはいったん引いて……)
振り返らずにバックステップで距離を取ろうとした、だが想像以上に兵士達の動きは速い。
驚くほどの速さ、それが異常なのだ。
私の能力は時間操作、自分の速度を加速させることで、他の追随を許さぬ速度と敏捷性を得る能力。
その私が易々と敵の攻撃範囲にまで接敵されることが、いかに異常か――。
剥き出しの目を更に剥いて私は、私を貫こうとする槍を、なんとか体を捻って躱した。
(は、速すぎる!? 嘘、ありえない、そんな!?)
『落ち着けリナ! まだ二人いる!』
槍は先しか貫けず、切り裂く形をしていない。今躱した一つは次の一手がくるまでに躱す体勢を整えられそうだが、残る二つはふらふらの私の心臓と頭を狙っているようだった。
(や、やるしかないの? あれを?)
『やらなきゃやられるぞ!!』
無責任なハングドマンの言葉を私は重く受け止める。
あれは――時間を止めるのは、本当に疲れるのだ。
恐らく最大で十秒、それだけあれば五十メートルは逃げられると最初は考えたが、実際にはできない。
なぜなら時間を止めるという作業自体に、私は息を止めて全力疾走したかのような疲労と心臓の早鐘を強いられるからだ。
ゆっくり動いて十秒か、急いで動いて約三秒が限界。それ以上の無理を強いた場合、私の体は引き裂かれんばかりの痛みが伴う。
(0,2秒!)
時間を止めた。体を横に反らすと、ちょうど二本の槍は私の腹と背中のロープを擦るだけで終わった。
(0,4秒!)
さっきの倍の時間で更に私は体勢を整え、敵に背を向けた。
(あとは加速と時間停止を利用し、戦線離脱!)
『待てリナ、何かが近づいて……』
動き出した時間で、私は敵四人に気を払っていたため、目の前の地中から現れたそれに気付かなかった。
(なによハングドさん、わりかし私は忙しくて……)
耳鳴りのような音が、徐々に振動とともに大きくなる。
そして立っていられないほどの地響きと同時に、地面からそれは顔を出した。
巨大な体は細長いと形容するのがうってつけだろう。だがその胴体は大の大人二人分はある。それにまして長すぎる体が、細長いとしか言いようなくしている。
口先に着いたノコギリクワガタの顎のようなそれは、いや、蟻の顎に酷似している。切り裂くというよりも獲物を押し潰す力を持った口だ。
緑と赤の斑点が体中についており、茶色の複眼は私にも一つ一つの目の区切りがハッキリ見えるほどに大きい、それはムカデ、全長十メートルはある巨大ムカデが地中から姿を現した。
(5秒!)
私は時間停止と全力疾走を合わせて、それの背中に回った。
だが私は思い出す。
数千から数万に及ぶ目の集合体、昆虫の複眼という奴は後ろですら簡単に見通すことができるのだ!
(ああ畜生ハングドマン悪かったよ!!)
そうやけくそに叫んだが――、ムカデは四人の兵士に向かって行った。
疲れた体で息をしながら、私はそれを呆然と見送った。
(……あれ、なんで?)
四人の兵士が散り散りになって逃げていくと、ムカデは隊長であろう馬に乗った奴を追って、他の三人には見向きもしない。
『さあ、もしかしたら強い奴を狙ったのか……純粋に、多い餌を狙ったのかもな』
馬の速度はムカデと拮抗している。他の三人が来ないうちに、私は移動を開始した。
『あの三人は南に進んでいるらしいな。俺達は西の方に行くか』
(……死ぬかと思ったー。これだけヤバイと思ったのは……玲子の時以来ね)
『あれはもう思い出すなよ……』
……しかし、私はついている。ラッキーだ!
あのまま四人の兵士と戦って勝てただろうか、時間を止めながらの戦いで追い続けられては、消耗の激しいこちらが負けたのは確実だろう。
考えを持たぬ無知なムカデの暴走のおかげで、今こうして生き永らえている。
恐怖に次ぐ恐怖は、最後に私を救ったのだ。
広大な青い大地に生物はほとんどなく、植物も生えていない。
巨大な城壁らしきものは見えているが、かれこれ三十分歩いても近づいているような気配がない。
(魚が飛んでいるねー)
ふと空を見上げてぼんやり念じる。異世界の奇妙な生態系も興味深いが、今は暇を持て余している。
さっきに旅用の荷物を全て捨てたことが問題だ。食べ物も着替えもない。暖かい服装とナイフ程度は持っているが、パスポートも飲み水も鞄の中だ、畜生。
『あれはリナの世界のトビウオのパワーアップバージョンみたいなもんだ。エラと肺で呼吸できて、虫を食ったりするらしいぜ』
空海両用の生物とは非常に興味深い。あまり生物に造詣が深くないが、たぶん凄いことなんだろう。
それよりも考えねばならないことが、私にはあるが。
(さてハングドさん、私達は例の『いつ、どこで、誰が、どうして』で現状を把握しよーか)
『例の、って言われても知らねえけど、まあ現状把握は重要だな』
(じゃあまず誰が、から)
『なんで誰がなんだよ。いつじゃねえのか?』
(確実に分かっていることからやっていくものよ、えっへん)
恐怖とは知ることで和らげることができる。覚悟することにより対抗することができる。
この異世界こそが未知の塊、即ち恐怖そのものであるならば、現状を把握し、覚悟することでそれをマシにすることができるというものだ。
(まず誰か、から。私はあっちの世界でもこっちの世界でも在日アメリカン三世、ゲルマン人75%と日本人25%の26歳、上から78、60、92のスペシャルナイスバディトレジャーハンター、リナ・リーベルトね)
『安産型だな』
(死ね)
年齢とスリーサイズと体重と身長くらいしかハッキリしていない。私は出生も、血統もどっちつかずの曖昧な存在、自分のことすら中途半端で、全く自信を失う。
『わ、悪かったよ、俺だってらしくないこと言って悪かったと思っているからさ……』
(次にどこで。まずここはどこだったっけ、ハングドさん?)
『お、おう。ここは俺達がいた世界。つまりお前たちの世界に突然やってきた異界の力の、異界ってとこだな。その中でも特殊な青い大地だ』
(そこに私は、アフリカ中部のコンゴの熱帯林からやってきた。その場所は確か……あなたと初めて出会った場所ね)
そう、場所に大きな意味がある。あの場所にいた時に私はハングドマンを拾ったのだ。
ここまでは既に分かり切ったことだが、これから分からないことを考えていく必要がある。
(で、いつ、なんだけど)
『俺とお前が出会って三年半、つまりあの戦いから三年半だな』
(それは、こっちの世界でも一緒かしら?)
『どういうことだ?』
私がアフリカに来たのは、間違いなく戦いの三年後だ。だが、この世界の時間の流れを私は知らない。
(実は、こっちの世界ではそんなに時間が経ってませんでした、っていうのはありえるんじゃない? もしくは、既に何十年も経っているとか)
『……悪いジョークだろ? まあ、それを知るには人と話さなきゃならねえが』
そう、それを知るには他の知的生命体と接触する必要がある。少なくとも生態系や地形が変わるほど、ハングドマンがいた時代と変わっていないのは確かな事実だ。
さて、一番の問題はなぜ、どうして、だ。
(どうして、ここに来たんでしょーね?)
『……何故移動したかは知らんが、何故ここに、ってんなら、ここが原因だろうよ』
(私もそー思う)
青い大地と熱帯林。それは異世界で特別と呼ばれる場所と、私の世界で特別な場所同士。
それが関係していないわけがない。それに加えてハングドマンという特殊な存在を持った私が近寄ったことで何かが起きたのかもしれない。
だが、それならどうすれば元の世界に戻ることができるのか?
――まあ、それはしばらく後回しでもいいが。
『おいリナ、なんか嬉しそうなのはなんでだ?』
「そりゃ楽しーでしょ!? 異世界! 異なる文化、異なる生物! 未知の満ち満ちた世界! 私の探求心が暴れたい放題よ!?」
ここでなら、私が求めてきた恐怖の正体も分かるかもしれない。すぐに帰るなどつまらない真似を一体誰がするのだろうか。
歩いているうちに城壁は近づいてきた。私は期待と興奮と、少しの恐怖を胸にその扉を叩いた。