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リナの記憶・ナナ・デュカキス

 ギリシャ。

 長い目で見ると、中国四千年の殷・周やメソポタミアの最古の王国ウルクなどが有名であるが、神話がありアテネ、スパルタなどで有名なギリシャも今やそれらと同様に有名な歴史の産地だろう。

 私とて文系の女、特に古文や歴史は先述の古典教師の例などもあり興味を持っていた。

 世界中を旅し、様々な言葉を知り、恐怖とは何かを知ろうと思っていた。

 そのため、セルゲイから提案されたことは、渡りに船だったと言えよう。

「リナ、ギリシャに行かないか?」

「はい? いきなり何?」

「俺の仲間が日本語を娘に教えたいと言っているんだが、自分達の言葉に自信がないそうだ。何より、その娘さんが日本人に教わりたいって言って聞かないらしい」

 この時に私のロシア語はほどほど上達していた。と言ってもセルゲイかアーニャがつきっきりじゃないと不安は残るが。

 そんな折角慣れたロシアという国を離れることを私は少しだけ逡巡したが、次の瞬間には首を縦に振っていた。

「かわいい子には旅をさせよって言ってね、その話、乗るわ」

「そうか。別に行かなくてもよかったんだが」

「それよりセルゲイの仲間ってことは……」

「ああ、まあ同じグループだな」

 またこれは別の話になるが、セルゲイ達はほどほどの犯罪者集団らしい。

 何をしているかは知らないが、気前よく人を適当に密入国させるくらいだから、私もうすうす勘付いてはいたが、それ以上は知らないように気を遣った。いつ殺されるとも知らないと思うと、それはそれで恐ろしい。

 だがそのおかげで、私はロシアという広い国を転々とできた。そのせいで正しい言葉遣いなどは学べぬままだったが、良い経験ではある。

「じゃあお願いします」

「おう。気を付けろよ」

 何に気を付けるのか、それは分かっているので、私は深く頷いた。



 ギリシャと言えば、何を思い浮かべるだろうか。

 歴史の知識関係なく、昨今では風呂漫画とかで有名になり、またオリンピック開催の聖地でもある。

 オリーブオイルが有名だが、地中海に面した貿易業も盛んで、そのため各地から文化や技術、そして移民が集う。

 その辺りの事情はイタリアも近い。移民のような外部の人間が多く集うために、あの国はマフィアという組織が多いらしい。

 何故移民とマフィアが繋がるか。それはマフィアはファミリーという絆で結ばれ、自分達の存在をより深く繋ぎ止めるかららしい。移民が来ても切れない絆、と言えば聞こえはいい。

 ともかく、私がやってきたのはギリシャの中でも島の部分、南エーゲと呼ばれる地域だった。

 かのロードス島がある地域、もしかしたらエルフやオークなんかも、なんてことは流石に夢見ていなかったが、ギリシャという地に期待はしていた。

 ロシアとはまるで違う地中海性気候、かなり暖かいが、夏に雨が少なく冬に雨が降るというのが、日本とは真逆だ。

 少し船に乗れば石造りの遺跡が見られる、そんなところで、私は真白い海岸と青い海を背に、その少女と出会った。

「貴公がリナか?」

「……え?」

 黒い髪と茶色い目と白い肌、そこまではギリシャでもよく見る外見らしい。

 だがこの地方にして、真っ黒なゴスロリドレスを着飾った彼女は、見て我が目を疑った。

「我が名は、我が名はナナ・デュカキス。日本人と耳にしたが、アフロディテが如き美貌の持ち主だ。……我が日本語は、何か奇怪かね?」

「はい」

何処(いずこ)に?」

「なんかもう、全て」

 ギリシャの中二病娘、それがナナ・デュカキスという少女だった。

 齢六つという事実が、まずます私を困惑させたことは言うまでもない。



 デュカキス家、とか言うと良いとこの貴族みたいだけれど、至って普通の三人家族。

 一階のリビングルームや二階はフローリングの床に白い壁紙で、吹き抜けの窓ガラスなどが通気性の良さどころか台風が来たらどうするのか、と尋ねたくなるほど開放的な構造になっており、太陽の恩恵を十二分に感じ取れる。

 しかし二階のとある一室、ナナの部屋だけは真っ黒のカーテンで閉ざされていた。

 薄暗い部屋の中で灯された蝋燭が、壁に飾られた血みどろのぬいぐるみ、カーテンを彩る蜘蛛の巣状のタペストリー、中央に陣取る謎の魔法陣、などなどの気味悪いデザインを照らしていた。

 そしてナナは中央の魔法陣の上で、両腕を交差させて肩を抱き、目を閉じて正座していた。

「……リナ、リナとナナ、運命的なものを感じる」

「別に感じないけど。にしても本当に日本語達者ね。私は必要ないんじゃない?」

 無論、ナナの父からは日本語をまともにしてくれと頼まれてきたのだが。

 そもそもナナ自身生粋のゲルマン人ではなく、私に似た境遇、モンゴロイドとコーカソイドのハーフである。そのため茶色い澄んだ目を持ちながら、まっすぐさらさらな黒い髪を持っている。

 その精神はどこからか。モンゴロイドの母親から日本のアニメを見て、学んだらしい。

「リナ、我をナナと呼ぶことを命じる」

「言われなくてもナナって呼ぶけど。にしても、日本語を教えるっていってもねぇ……」

 日本語が達者な人に日本語を教えられるほど、日本語に卓越しているつもりではない。

 英語しか知らない人なら適当に、ライス、イズ、ゴハン、とか言っておけばいいのに。

「ともかくね、ナナちゃん」

「貴公、ちゃん付けなどお道化た言葉回しがあるか。ナナと呼ぶのだ」

「ナナちゃんはナナちゃんでしょ」

「リナ」

「リナお姉さんでしょ」

「うーっ」

 厳しく当たっていると、ナナは突然獣がするように歯を立てて唸った。

「リナお姉さんよ、ナナちゃん」

「我をこれ以上愚弄するなら、闇の力にて葬らん」

 アンタの父親持ってるもんね、闇の力。なんてことは口が裂けても言わないようにと念入りに言われている。ナナには平和に生きて欲しいそうだ。なら真っ当な道に戻ればいいのにと思うが。

「はいはい、ナナちゃん、朝の挨拶は?」

「太陽が疎ましいな……」

「昼」

「今は彼奴等の時間か……」

「夜」

「ふ、我が本領発揮」

「少し黙ろうか、ナナ?」

「!?」

 部屋の中心で目をぱちくりさせているナナを置いといて、私は部屋の鍵を後ろ手で閉めた。

「え……リナ?」

「お、ね、え、さ、ん」

 努めて笑顔を作るけれど、私は笑えている自信はない。

「朝の挨拶は?」

「ッ! カリメーラ!」

「え、なに?」

「……おはようございます」

「それでよし」

 何でもそれはギリシャ語でのあいさつだったらしい。引きこもりで家の中で日本語ばかり使っているというナナが、咄嗟にギリシャ語が出たのは何故なのか、本能的なものなのか。

 ともかく、こうして私はナナと上下関係を構築し、彼女を立派な日本語マスターにしたのである。というか私よりも日本語が上手になったのである。



 それから数か月経たずして、私はナナとの心的距離をみるみる縮め、一緒に海で遊ぶほどになった。

 それほど遠くへは行けないが海はナナの家から徒歩十分もかからない。

それに私もナナも遠泳なんて趣味はないから、砂浜でダラダラ陽に焼けるくらいしかしなかった。

 ただ砂のお城を作っている最中に、ふとナナは私に尋ねてきた。

「ねえリナ、リナはなんでここにいるの?」

「それって私の存在が邪魔ってこと?」

「そうじゃなくて。だって日本人がこの国に住むなんて普通ないから」

「詠美さんは?」

「お母さんは別でしょ。リナだってまだ大人じゃないじゃん」

「お酒飲んでるよ」

「でも二十歳になってないじゃん。犯罪者だよ、まったく」

「二十歳だよ」

「お酒断ろうとして、また十七歳ですって言ってた」

「……聞こえてた?」

「うん」

 ナナはこの時、記念すべき七歳の誕生日を迎えていた。

 それでも小学二年生の年齢だ。それにしては、彼女は目ざとく、勘が良かった。

「リナのお父さんとお母さんって、どんな人?」

「普通の人」

「リナは?」

「普通じゃないかもね」

「だったら、なんなの?」

「さあ。もしかしたら魔王かも。それか天使の生まれ変わり。あ、ナナが言ってたアフロディテかも」

「ほんと!?」

「嘘よ。ただの、普通じゃない人間」

「ふーん。……でも、それもちょっとかっこいいかも」

「さあねえ」

 ふと、ナナは手を止めた。私が作っているお城の方がどんどん高く積み上がっていく。

「どうしたの?」

「リナは寂しくないの?」

「何が?」

「お父さんとお母さんと離れること」

 言われて、私は少し考えた。

 悪い人ではなかった。社会通念に照らし合わせればナナの父親やセルゲイの方が悪人だろうし、良い意味でも悪い意味でも常識がある人達だった。

 けどどうしてか離れても後悔はない。あの人たちを不幸にしてしまったと考えると少しだけ胸が痛む気がして、涙が出そうな気にもなったけれど、じゃあ戻るかと問われれば、私は決して首を縦に振らない。

「寂しいよ。寂しいけど、平気」

「寂しいけど平気なの? うーん、リナが言うことは深い」

「あんたは考え過ぎよ。子供なんだから馬鹿みたいに体動かして、馬鹿みたいに泳ぎなさい」

「リナが全子供に謝ったら体を動かそうかな。じゃあ私が全子供を代表するから謝って」

「馬鹿」

 私はナナを小突いて、しっかりとその目を見た。

「あんたは親を安心させてやりなさい。どんな親でも、たぶん子供のことを思っているんだから」

「たぶんなの?」

「たぶんよ。だって私、親じゃないし」

「あはは、何それ」

「なんだっていいでしょ?」

「そいえばさ、お父さんとお母さんの前でするあのバカみたいな喋り方は何なの?」

「ばっ!」

 突然変わった話は、私が苦手としていた話でもある。

 海外も人付き合いも慣れていない頃の私であるけれど、人に良く笑顔を見せて、少し幼く見せる程度の喋り方と表情をすればいいと、アーニャに教わったのを実践していたところなのだ。

 間延びした声なんかは自分でも変だと思っているが、裸の王様に出るような正直者の子供にそれを言われると、顔が赤くなる。

「あ、あれは……その」

「やっぱり世を忍ぶ仮の姿ってやつ? 私にだけ正体を現すのも、やっぱりそういう……?」

 そういうってどういう? なんて聞かない。この子は喋り方は変わっても、そんなのが好きなままだ。

「私はただの人よ。あれはなんていうか、人と親しくするための手段」

 それを聞いて、ナナはガッカリしたように声を荒げた。

「えー? リナもそんな人なのー?」

「そんな人?」

「お母さんがさ、友達は沢山作りなさいって」

「うんうん」

「リナも友達をたくさん作るの?」

「いや、別に」

「え、嘘吐いたの?」

「嘘は吐いていないわ。ナナは沢山友達を作る、私は作れなかった、そういうこと」

 むー、とナナは低く唸った。友達はともかく、信頼できる人間がいるに越したことはないのだ。

「ナナも私以外の友達を作らないと寂しいでしょ」

「えー、リナだけで充分だよ」

「そんなこと言っても、私だっていつかここから離れるだろうし」

「えっ!? それ本当!?」

「そりゃそうよ。人の出会いは一期一会、憶えておきなさい」

「なにそれ?」

「一度出会った人とはもう二度と会えないかもしれない。だから会うたびに、その人を大切にしよう、っていう日本の言葉」

「ふーん……」

 言うと、ナナは笑顔で私の手を握ってきたのであった。

 それがきっと彼女なりの、人を大切にすることなのだろう。

 私も優しく、手を握り返した。

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