リナのトラウマ
教皇がここで殺されない理由は魔力の壁なるものによるらしい。
シーナのように現状をよく思わない輩もやはりいるということが分かった。
この平和ボケしたような楽園で頭の悪い集団を作っているわけではなく、私のように外部の者を雇うのだから、意外と内外の区別はされていないのだろう。
それは罪人を外からここに連れてくることからも分かる。
楽園は教皇を閉じ込める監獄であり、処刑場なのだと思う。
シーナと別れた後、私はレイフェスを追って教皇のところに向かった。
徐々に鬱蒼と茂る森の中で、いつの間にかレイフェスを見失っていた。
はっきり言ってあり得ない。これは私が間抜けだからではない、嵌められたに違いない。
尾行技術程度は私にだってある。向こうがそれを上回る追跡を振り払う技を持っていただけだ。
名ばかりの楽園は狩猟場に変わるのかもしれない。木々のざわめきが不穏な空気を醸し出す。
五、六人、私を囲むように人間が近づいてきている。
元の世界ならば一人二人くらい投げ飛ばす自信もあるが、こっちの世界の強靭な人間にはそれもできないだろう。
だが普通に逃げては捕まる。
なればこそ、『木登りリナちゃん』と呼ばれた過去を今、解放するのだ。
権力を握りぬくぬくと生きたレイフェスには想像もできないだろう。
木で生い茂ったこの楽園ならば人に見つからずに私を襲うこともできるだろうが、その分、レイフェスがしたように逃げることも可能だ。
小さな洞に指をひっかけ、充分な反動も利用しながら勢いよく木を登る。
なるべく幹に近い安定した太い枝に足をひっかけ、木の葉に隠れるようにして息をひそめる。
ここで死ぬかもしれない、という恐怖は殆どない。
こういう時にあるのは昂揚感だけだ。命の危険はこれまで何度も体験してきた。今更がくがく震えるなんて女々しいことはしない。
力仕事を任せられ、その作業のデメリットも計算できない愚かな男五人は、私が木に登っているなど想像もしなかったらしく、顔を合わせると散り散りになって私を探しに行った。
人伝いに教皇の場所を聞き出し、私はようやく再会を果たした。
「猊下、ここにおられましたか」
傍ではレイフェスが幽霊を見たような顔をしている。笑い倒してやりたいが、そこはぐっとこらえる。
「レイフェスと話した後、森のような場所で道に迷ってしまって。すみませんでした」
「よい。ではレイフェス、さがれ」
「え、あの猊下……」
「どうした?」
続く言葉もなく、レイフェスは私を一度だけ、鋭く睨むと、足早にどこかへ去って行った。
しかし恐るべきは、今の反応からあれがレイフェスの刺客であると確定したことだ。
私が教皇をどうにかしようなどと考えていないと説得したつもりなのに、既に私を始末する算段をつけていたのだ。
今、彼女は失敗した部下を罵るか新たに私を始末する計画でも立てているのだろうが、それまでにこちらも手を打たねば、今度こそやられかねない。
「レイフェス、なにやらおかしなようすだのう……」
「それより猊下、一つ物語はいかがでしょう?」
部下を気遣う優秀な上司の顔は、すぐに子供の笑顔に変わった。
「こんどはいかようなはなしだ? あまりヨをおこらせるでないぞ?」
「ええ、お任せ下さい。昔あるところに、ロミオという若い男がいました……」
家の決まり、宗教の規則に縛られ悲劇に落ちる二人の物語を聞き、彼は何を思うのか。
有名な話だ、ゲルフとギベリン、決して結ばれてはならない家系の二人は恋に落ち、結ばれぬ互いの身を呪い、心中してしまう。
その美しい愛、そして当時の世相を反映したような教訓。
これこそが今、この国に必要な話ではないだろうか。
全てを話し終えた時、教皇は敵意を露わにして私を睨みつけていた。
「……リナ、よくもぬけぬけと、そのようなはなしを……」
「そのような話とは?」
「ふざけるな! かみのおしえをガイアクのようにはなすなど、ゴンゴドウダン!」
教皇は怒りに狂ったように立ち上がる。一つ目の話に比べ、二つ目と三つ目は少し過激すぎたか。
「害悪とは言いません。私とて神の教えなるものは真に大切なものだと思っております。人が人であるためには、神の教えの通り敬虔に生き、節制に努め助け合うことが肝要ですから」
「そのことばっ! うそいつわりはないのだな!?」
「ええ! 神に勝る存在はございません!」
神が存在するなら、の話だが。
本当に嘘は吐いていない、どの国の教義にも犯罪を助長するようなことは書いていない。
子供を躾けるように、ちゃんと早寝早起きしなさいとか、助け合いなさいとか、正義を信じなさいとか、そんな文句ばかりが書かれているのだ。
本当の害悪は結局人間だ。
「……リナ、ナンジのことをしんじ、ヨはナンジをゆるそう。だが! もしこれいじょうヨらをグロウするようなことがあれば……」
「それには及びません、猊下」
レイフェスの鋭い言葉が耳に突き刺さった。
振り返れば、レイフェスの後ろにはさっきのような裸の男たちが並んでいる。
「猊下、リナリーベルトは死刑になった商人の仲間です。急ぎ、審問すべきかと」
「なに?」
果たしてスイートと共にこの国に来たというだけで私は罪に問われるのだろうか。
嘘を吐くという明確な罪を作るよりも、事実を話すべきかと思う。
「……猊下、確かに死刑に処されるスイートという行商人は私の親友です。それに、何か問題が?」
「む……いや」
教皇はすぐに口ごもり俯いたが、レイフェスの高笑いが聞こえる。
「あら、リナリーベルト、死刑囚と親友だなんてあまりにひどいのでは? あなたにも罪があると考えるのが普通よ?」
「まさか。私の身は潔白です。この身に過ちの一つもありません」
「それは審問で決めることです。こっちに来なさい」
男達が近づいてきた。
私もようやく悟った。嘘を吐こうが本音を言おうが、レイフェスにその事実を知られた時点で手のうちようがないのだ。
男が腕をぐいっと引っ張ってくる。その力強さに私は眉根を歪めた。
「自分で歩けるわ。放しなさい」
しかし髭面の男はぐいぐいと引っ張る。聞き分けのない男め。
「待て、リナ」
教皇の言葉が、男の動きを止める。
「どうしました? 猊下」
「……いや」
レイフェスの一言だけで、教皇は口ごもった。
急に涙が出そうになってきた。あまりに、むごい。
「猊下、この国はあなたの国です。あなたがなさるがままにできるのです。だから猊下、選択は慎重に、決定的になさってください」
言葉を止めるように男が強く、腕を握ってくる。
絶対にこの男の顔は忘れない。堀りが深く、黒い髭面の、分厚い唇の、汚らしい男。
そしてレイフェスもだ。
「じゃあリナリーベルト、楽しい審問に行きましょうか」
レイフェスの笑顔を、脳にこびりつける。
「お手柔らかに、お願いするわ」
自然と語調が刺々しくなってしまった。それはますますレイフェスを怒らせることになってしまったかもしれない。
処刑場よりも北、飲み水が溢れる湖に私は連れてこられた。
レイフェスと選りすぐりの男しかいないが、あの腕を引っ張った男もいる。
はっきり言って、私は執念深い。心の底から屈服させるような、仁藤玲子や王鈴輝――あの武器商人の女――くらいメタクソにやられないと恨みを忘れない主義だ。
「じゃあリナリーベルト、今から自分が何をされるか分かる?」
「審問ね。何をするの?」
「想像してご覧なさい、一番えぐいやつ」
下卑た笑いがレイフェスから始まり、男達へ反響していく。
もう隠すつもりもないらしい。だから私も正直に言ってやった。
「あんたの顔を見て声を聴くのが一番きついわ、レイフェス」
「……へーえ、言うじゃない」
男が後ろから私を組み伏した。土臭い芝生に顔面を押し付けられる。
こんなものは苦しみでもなんでもない。
馬糞食わされようが死ぬまで水を飲まされようが、痛く悲しいだけの苦しみに意味はない。
一番苦しいのは無力さを知らされることだ。
この国を変えるなんて途方もないことをやろうと思った私が無力感を覚えるのは当然のことだ。
けれど、その前にこの女に一泡だけは噴かせねばならない。
「ま、外傷を残せないから傷つくことはないわ。けど死刑は決定よ、いい?」
「二つだけ条件があるわ」
私は間髪入れずに答えた。
レイフェスも蔑むような笑みを浮かべるだけで、何も答えない。
認めてくれるかどうかも分からないが、それでも私は言う。
「一つ目は、私が入国した時、あなたに取られたカードを覚えてる? 苦しそうな男が書かれたカード。あれは私の、私の国の宗教のカードなの。本当に大切な……大切なもの。だから刑に処される時、それを握らせてほしい」
「ふーん、もう一つは?」
「行商人のスイート。スイート・スーは元々この国に来る予定じゃなかったの。私の都合のためにここに立ち寄った。だから、できれば死刑にしないで欲しいの」
「それは無理ね。あの子の罪は別件だから」
「それじゃせめて……私を先に殺して。罪の意識に苛まれるくらいなら、先に死ぬわ」
「あはは! それはいいかも。どっちが先でもいいんだけど、個人的にはあなたを早く殺したくてたまらないの」
彼女が約束を守るかどうかは分からないが、これで何とかできるかもしれない。
信じるしかない、この憎むべき仇が、私を憎みながら、私に情けをかけることを。
「さて、それじゃ腹いせに拷問するけど」
「……外傷を残さないのに?」
「水があるでしょ?」
……。
苦しみでも何でもないなどと嘯いたものの、少し気が遠くなった。
男に足を掴まれ、何度も何度も湖に頭を入れられる。
肺の中の空気が精一杯出たと判断された時に、ようやく呼吸を許される。
どれくらいの時間それが続いたのかもう私には分からない。
しかし息継ぎの回数は五十まで数えた。
その後はもう、昔の記憶を思い起こしていた。
『血液、涙、尿、汗も鼻水も愛液もリンパ液も組織液も、普通の人と変わりませんね。母乳とか出ません? まあ、出ないと思いますが』
玲子の言葉だ。
『消化液、行きましょうか。胃酸に胆液、膵液……切開しなければなりませんが、私の空間操作能力を使えば、口か肛門から押し出せますね』
直後、腹の中の中にブロックを詰め込まれたような感覚が私を襲うのだ。
『選んでいいですよ。個人的には肛門から出したいですね。大腸に出現させましたし、あんまりいろんなのと混じっては面倒なので。それに、自分の糞を味わいたくないでしょう?』
彼女はそんな狂った言葉を、無表情で、片手間に呟く。
自分は並んだ試験管の中の、私から出た液体を実験しながら、片手間に私の中をゴリゴリ、ゴリゴリ、押し広げる。
『……あはは、切れ痔になったらごめんなさいね』
そんな笑えない冗談を言って、愛想笑いしながら。
頭が良い人間ほど邪悪を邪悪とも思わずにやってのける。
私はそう考える。
テーブルについた私は、目の前で惨劇を食い尽くす女を見て、心底慄いたものだ。
『どうしたノ、リナ? 早く食べないと冷めるヨ?』
カタコトの日本語を言いながら、鈴輝はフォークとナイフを操って、目の前の腸を刻んでいく。
『さ、冷めるって……』
『まだ温かいヨ? 人間の体内は三十七度くらいらしいカラ』
まだ生暖かいそれを、彼女は咀嚼する。
口から赤い血がたらりと流れた。
『リナ、食べないノ?』
私はその時、南アメリカの反政府組織に捕まっていた。
アメリカ人と思われ殺される寸前で、自分が日本人だとなんとか証明でき、鈴輝に気に入られたのだ。
だから、彼女の命令を聞かないと殺されると思った。
だが、食べられなかった。
『無理、無理よ、鈴輝。いくらなんでも、こんな……』
『高等な動物は、共食いしないヨ。アメリカンは下等動物、問題ないネ。リナ、これ食べられないっていうことは、リナがアメリカンと同等ということになるヨ?』
彼女は血塗れのナイフを私に向けて、困らせるな、と言うように睨んだ。
『でも、こんなの……』
『リナ』
鈴輝はフォークとナイフを置いて、私の傍に来た。
ぶたれるかと覚悟し、目を閉じると、口の中に生暖かい者が触れた。
彼女の口からぶよぶよした何かと錆び臭い液体が流れ込んでくる。
間近の彼女は愛しい恋人に口づけするような穏やかな顔をしていたのに、その繋がった口腔から醜悪な臭いが広がる。
私は鈴輝を押しのけて、すぐにそれを吐いた。
そしてやっとわかったのだ。
死ぬよりも恐ろしいことはある、と。
もう死んだっていい、そう思って、泣きそうな顔をしながら鈴輝を見た。
彼女はケタケタと笑っていた。
『それが正しい日本人ヨ。命惜しさにパクついてたら殺すつもりだったネ』
そう言って、彼女は倒れ込んだ私に手を差し伸べた。
私は立ち上がることすら、しようとしなかった。
「どう? リナ」
びしょ濡れの顔を拭くこともできない。
仰向けに打ち捨てられた私の前には、見下すレイフェスの顔があった。
「あなた、慣れているわね? あれで死ぬ人もいるのよ」
慣れてなんかいない。水責めなんて初めてだ。
「対処法を知ってるだけよ……」
激しい怒りも苦しみも絶望も感じないように、狂わないように、ひたすら無心になるのだ。
あの二人の拷問に比べれば、こんなものがなんだと言うのか。
本当に恐ろしいのは、あの二人はそれを拷問とすら思っていないことだ。
実験、食事、彼女達は日常生活の一部として当然のように私を苦しめる。




