リナ・火野札に戻る
久しぶりに火野札市に戻ってきた。
まだ四半世紀だけの私の短い人生の中で、この場所が最も私に影響を与えただろう。
居場所も存在も曖昧な私が、初めて一つの生命体として正式に公式に名指された、私が私たりえる場所と言える。
人の恐怖とは何か――それを求め、旅してきた私が、この世の事象全てに少なからずの恐怖を得ている私が、恐怖しながらも安息できるただ一つの場所こそがここなのかもしれない。
火野札市中部の北側、火野札生物科学研究所、文系で学がない私がこんな辺鄙なところを訪れたのは、もはや友と呼んで差し支えない存在に会いに来たからだ。
果たしてそれは人間か、それとも新たな存在か。それは分からないが、仁藤玲子という名の雌であることに違いはない。
彼女は四十過ぎの研究者だ。いつも短めのスカートと白衣を着て、ファッションよりも機能性を重視した格好だ。今は優雅にコーヒーを飲みながら座っている。
といってもそれは私が見る時は、の話で、彼女は研究者でありながら国会議員と大学講師とも兼任する尋常ではなく忙しい人間だ。
こういう人間が天才なんだろうと画然と分かる。それも、見た目も四十過ぎには見えない、多忙のせいで小皺が増えたように思えるが、それでも妖艶な細い瞳は何もかも見透かすようで、瑞々しく、若々しい。
「久しぶりですね、リナ」
黒い髪がコーヒーにかからないようにどかしながら、彼女は穏やかに呟く。
「やー、本当に久しぶりだねー、三年ぶりくらい?」
私が努めて明るく言うと、玲子もふっと微笑んで、コーヒーを机に置いた。
「三年と六か月、十二日ぶりです。時間を操る貴女が間違えるのはどうかと思いますが」
「『能力』を禁止にしたのはあなたでしょーが」
本当に意地が悪い性格をしているらしい。私は太陽の場所で時間を測るような未開の地にも行って、細かい時間などは知らないのだ。
北はアイスランド、南は南極、国交の有無、言語の理解をも超えて私は世界中の未知と不思議と怪奇と謎とを求めて旅を続けている。
今回は三年半のみの旅であったために多くを回れていないが、『能力』を使って南極に上陸したのは良い経験だった。
一面に広がる白い世界は美しい。けど同時にどこか謎と恐怖を孕んだような無の世界。
近くの雪山から白熊や、それすら食いかねない想像を絶する化け物が現れるのではないかという期待と恐怖、全てを解き明かしたいがために何もかも掘り出そうかと思ってしまうほどだった。宇宙や深海、人の脳と比べると多くの謎が解明された場所だが、それでも私は期待せざるを、恐怖せざるを得ない。
「リナ、聞いていますか? 今度はどれくらい火野札に滞在するのですか?」
気遣うような玲子の声でようやく私は、今目の前のぬくぬくとした研究室の空気を思い出す。
「あー、えーっと、滞在かー。腕なしホームレスが死んだんでしょ? その墓参りと、まあスターの少女にも会いたいかなー?」
三年前の戦いを思い出す。突然不思議な力を与えられ、その権利と存在の異議のために発生した争い。
あの時は、この女に酷い目に遭わされた……。
真っ先に思い出すのはそれだ。この仁道玲子という女がトラウマになっているが……。
希望を信じる美しい少女、スターの少女、そして誰にも理解されぬ孤独な男、あの腕のないホームレスも印象深い。
恐怖を全く知らない少女と、恐怖を知り尽くし絶望した男、と私は解釈している。
「そうですか、では私も忙しいので言うことを言わせてもらいますね」
私が恨んでいることも気付かず、彼女は指を二本立てた。
「一つ、勝手に変身しないこと。もしくは人前で変身しない」
それはバレるだろうと思っていた。南極であっても、変身能力の影響は同じく変身できる者には敏感に分かるのだ。
「もう一つは?」
「……そのスターのことなんですが……」
話を聞いて、私は部屋を出た。
火野札市の南側、南浅木と言う地域に作られた墓に、私は手を重ねた。
(スターがいなくなったって知ってたのー?)
手を合わせ、目を閉じ、念じているが、別に死者と話しているわけではない。
『まあな。けど、それ言ったところでどうしようもないだろ? その時はアラビアの砂漠を彷徨っていたころだからな』
その返事は、もはや私と一心同体となった、異界の住人のものである。
三年前、この火野札市を中心に二十二のカードが出現し、それを得た者達は変身して戦う力を得た。
カードの形をしながらも、それぞれが意思を持ち、こうやってカードを持った存在にのみ通じる思念の言葉を発することができる。
ある者は唆されて暴走し、ある者は幻聴と信じて無視し、しかし僅か一週間にも満たない期間で争いは終息した。
そもそも暴れたのは現状に不満がある者だけだった。この世は、特にこの国は争いを望んでいないのだ。一銭の価値にもならない戦いがそう何年も続くわけない。
それに、この国の政府もこの異人達を認め、許容した。火野札市に閉じ込めることで安全を装い、後は無関係な差別主義者と平等主義者が私達についてどうすべきか、喧々諤々の議論を延々と続けるのみ。どうして哲学者とは答えのない答えを求め続けるのだろうか。
――それは、恐怖とは何かを求める私にも言えることなのだが。
『おい聞いてんのか?』
(あっ、ごめーん、ちょっちぼんやりしてた。ぼんやりんぐね)
私達は変身する者、そして世界を変える者という意味で『チェンジャー』と呼ばれるようになった。
この異世界の男はハングドマン、と言う。タロットでの暗示は忍耐、努力、試練。そして徒労、欲望への敗北、自暴自棄。
一人の王でありながら、国を守るために自分の意志を捻じ曲げて媚びる男と、恐怖の謎を知るべく努力し続けた私は共調したらしい。
『それでこれからどうすんだ? スターと会えないってんなら、あのスターを拾った、星奈だっけ? と会ってもなあ』
(そうねー。でもそこは男子三日会わざれば括目して見よ、っていうくらいだから、会ってもいいかも)
『女子だろ、あの子』
(子供の成長を舐めちゃ駄目よ。もうぐんぐん、ぐんぐん伸びるから。サツマイモか! ってくらい)
『そのたとえ、全然分からねえ』
ハングドマンをからかいながら、私は腕なしに別れを告げて墓場を後にした。
三時間ほど火野札市をうろついて、私は自分のしたミスを痛感していた。
『お前って本当に馬鹿っぽいよな。なんで家も知らずに会おうと思ったんだ?』
(……まー、いーじゃない。三年でこの火野札市がどれくらい変わったかも分かったし)
恐怖の哲学者を自称する私だけど、考えなしの行動を取ることが多いのはご愛嬌である。世の中は考えるよりも感情や意志が力を持つこともあるのだ。
今はその限りではないが。
『玲子のところに戻って場所を聞けないか? もう飽きたぞ、この町』
(あんまり会いたくないの。分かるでしょ?)
『分かる。それはもう分かる』
三年前にチェンジャーが争ったことは既に話した。
その時にチェンジャー達は変わらず人として生きる『融和派』と、チェンジャー達が火野札市を国にして統治する半隔離政策を推す『独立派』が互いに争ったのだ。
融和派のリーダーがスターの星奈、そして独立派のリーダーがワールドの玲子なのだが、私はその時に知能も『能力』も最強クラスの玲子一人を相手取り、負けて壮絶な拷問を受けたのだ。
思い出すだけで怖気が走る、吐き気も、卒倒しそうな気持ちをこらえるも、高速回転する映写機のようにあの時のことが思い出される。
能力で壁に磔にされて、手首、足首、首に見たこともないような巨大な注射器を刺されて、自分の体から血が抜かれる場面を見せつけられた。
貧血になった後、彼女は容赦なく変身後の強大な力で私の腹部を殴打し、胃液を吐きつくすまでそれを続ける。
涙も乾いた頃、次に彼女は私に怪しい薬を飲ませた。利尿剤だ。
……これ以上思い出すと涙が溢れそうになる。体中の水分を出し尽くすという玲子の歪んだ性癖がもたらした実験が心底恐ろしいというのを実感したのは私とハングドマンしかいないだろう。
戦いの最後は、新たな第三勢力を玲子と星奈で倒し、二人が総理大臣と話をつけて、二派を足して二で割ったような状況になっている。
大体は玲子の言う通りだが、星奈の言うことも反映されている……。
学校前で、バッタリとその彼女に出会った。
背は伸びているし、幼かった面持ちは可憐ながらもどこか大人びていて別人のように思える。
けれど伸びた黒髪を結ぶ、お気に入りの星形の髪飾りは変わっていない。
「もしかしてリナさん? リナさんですよね!」
ぱたぱたと髪を揺らして走る姿は相変わらずあどけない、けど背が伸びて大人っぽい分、少し将来が心配になる。
まだこの子は中学の一年生だ、これくらいアホっぽくても仕方ないはずだ。
「久しぶり、星奈ちゃん、最近どう?」
「どう、って言われても……うーん、みんな楽しくやっていると思います。あ、友達の春子が、リナさんに憧れているんですよ。できれば今度会ってください」
「へー、まぁ気が向いたら」
そう建前を言ったが、中一の女子というだけでとても会う気にはなれない。若い時の思い込みは激しく、相手にするのは正直疲れる。まあ若くなくても、私や玲子の偏った思考も同様かもしれないが。
「ところで星奈ちゃん、スターがいなくなったって聞いたけど」
「あ、……はい」
彼女の表情は一瞬翳った、けれどその次に出た穏やかな笑みは、驚くほど暖かい雰囲気がある。
「決めたそうです。手立てを教えるから、成功したら伝えてほしいなんて言ってたのに、話終わったらすぐに行っちゃって……馬鹿ですよね」
「……そうかもねー、でも気持ちは分かるなー」
別れは誰だって辛い。何もかも伝えて別れるよりも、何も言わずに早く別れたい時もあるのだ。
スターは人情に厚いと聞く。話しているうちに感傷的になったのだろう。可愛い男だ。
「どうして、ですか?」
「ずっと一緒にいると、どんどん離れたくなくなるからね。だから決断するの、今のままじゃ駄目だから変わろーって、変えよーってね」
「……」
すぐに星奈は暗い表情に戻った。星奈にとって数年一緒にいた友を失うのは、少ない経験だろうから仕方がないだろう。
「会いたいな……」
ぽつりと星奈は呟いた。無意識で無自覚だろう。以前のどんな状況であっても自分の道と正義を信じる魔法少女の姿は見られない。
「あ、そういえばリナさんはどうしてここに? 世界中を旅しているって聞きましたけど」
また彼女は明るい顔をして言った。無理しているように見えて、少し痛々しい。
「ちょっと前まで南極に行っててね。次にアフリカ中部の熱帯雨林をしばら彷徨おうと思っているから、少し体を温度に慣らそうと思って。変身したらそーいうのにも強くなるんだけど、それに甘んじて南極でもコートを着なかったからねー」
変身の能力は絶大だ。一般的な身体能力は軒並み強くなり、更に特殊能力が使える。寝ないで済むってほどではないが、少しの気温差くらいならへっちゃらだ。
しかし南極は寒かった。気温差が少しじゃなかったのだ。
一面の銀世界を渡り歩く寒そうなカメレオン女、三文小説でもなさそうな恥ずかしい話だ。
星奈はまるで異次元の言葉に耳を傾けるような、静かな驚きを見せている。彼女にとったら、外国どころかこの日本の中もそういう異次元で溢れているだろう。
「星奈ちゃんも若いうちにいろんな所に行くべきだよー、いろんな場所は人を成長させるから」
そして星奈と二言、三言交わした後、私は再び移動を始めた。
何故火野札市に戻ってきたのか、星奈にそう尋ねられた時に私は答えに一瞬詰まった。
本当は玲子を恐れて、変身したことを承認して欲しかったから来たのかもしれない。平和で快適なこの日本に戻りたかったのかもしれない。
氷と少しの動物しかない世界を見てから、私を認めてくれたこの場所に戻りたかったのかもしれない。
何故戻ってきたか、それを考えると私は自分の未熟さを少し感じる。
『もうアフリカに行くのか。もうちょっとゆっくりしてっても……』
(光陰矢の如し、時間は待ってくれないんだよーだ)
アフリカへ行くために、一応日本から直接向かうこともできるが、フランスなど過去にアフリカを植民地にしていた国を経由した方が目的地に行く方が何かと便利だ。
(さて、コンゴか……)
リナはかつてハングドマンに出会った場所へと戻ることに、少しの郷愁を覚えた。
熱帯雨林は良い。
南極の雪国に匹敵するほど、人の手が加えられていない天然の自然。
昨今、人々は整えられた山道や作り出された田んぼを見て自然だとのたまうが、それは間違いだ。
無造作で調和の一切取れていない混沌こそが自然、何の作為も意図もない、ただ雑多に物が存在するカオスこそが自然。
足の踏み場もなければ、どうあがいても体がかぶれる植物に触れてしまうような人の通りようもない道を、私は軍手と長袖長ズボンの重装備で渡り歩く。
今踏み潰しそうになった虫の一匹一匹が、世界に確認されていない一種なのかもしれない、今空で鳴いた大きな鳥がこの世に認知されていない一匹なのかもしれない。
こんな地でも確かに人はいて、その生活を続けている。生きた証を刻んでいる。
彼らは自然を崩さない。この混沌の中から生き抜くために必要なものを選び、互いに助け合い、そして混沌を構成する一つの生命体として動物同然の暮らしをしている。
彼らにとって植物を切り取り熱帯林を破壊する先進国の存在こそが害悪同然の侵略者なのだ。
初めて来た時は、日本人だが白人の私も疎まれたものだが、とある機会に仲良くなって以来は国境も勝手に越えても許されるようになった。これも人徳のなせる技だろうか。
けれど、そんな優しさを安易に信頼する私は、同時に彼らを無知だと嘲っている節がある。
優しい人を、私は疑う。その優しさに裏がないかと疑うのは人なら誰でも多少はするだろう。
だが、犬が尻尾を振るのを見て疑う人はいない。それと同じように、私は彼らを見ている気がする。
彼らはそれに気付いているだろうか、気付かずに接してくれているだろうか、恐ろしい。人の気持ちとはこうも恐ろしいものなのか。
熱帯林に人はいない。出会っても笑顔で適当に挨拶を交わすだけだった。
(どーよ、ハングドさん、この空気は?)
『俺、虫苦手なんだよ。こんなところにいたら発狂するね』
(結構食べれるもんだよ? まあ食べられない方が多いけど)
別に彼らだって牛や豚を飼って食うこともある。そんなもの百舌が木に昆虫を串刺して保存するのと同じことだ。実に自然。
いや、アフリカ事情はどうでもいい。私はとある目的をもってここに来たのだ。
(この先は覚えてる?)
『……俺がお前と会ったのはここら辺だったか』
二十二のタロットは、このハングドマンを除き全てが火野札市に落ちた。
ただ一人私だけが、この熱帯林の中で彼に出会った。
この不自然さの理由がここにあるかもしれない、そう思い立ったのがほんの一か月前だ。
導かれるように私はまっすぐ進んだ。コンパスもなしにまっすぐ、というのは不可能に等しいが、入り口辺りならもう充分に覚えた。
一歩一歩、危険な動物が出ないように祈りながら、私は踏みしめていく。
そしてその自然の中の不自然と対面してしまった。
草木のなく、ほんの小さなダニの一匹もいない、奇妙な石版。
正方形に切り分けられて地面に張り付いたそれは、奇妙な模様が描かれていた。
(これは……なんだろーね?)
『俺も見たことがない形だ。この辺りの民族がやったんじゃねえの?』
(確かに、時に彼らは素朴な芸術や理解不明なものを作るね。モアイしかり、アボリジニーアートしかり)
『お、おう。お前ってたまに凄く知的っぽいよな』
石版は陰陽五行思想の八卦で使われるような線だけで描かれている顔のように見えた。横線一つの口、縦線二つで鼻の穴、目も縦線二つだが、他より大きく刻まれていて、なんだか持ち手のようにも見える。
私は恐る恐る、それに触ってみることにした。
硬い石、正確にまっすぐ彫るくらいは彼らにもできよう。しかし不自然だ。
モアイは何故作られたかを今の学者も説でしか語れない。宗教的だとかなんとか言うが、既に滅んだ人々から話を聞けないうえ、史料も何もないから分かりようがないのだ。
顔をゆっくりと撫でる、鼻の穴から、目まで。
すると、地面から不自然な青い光がその石版の下からあふれ出た。
「なっ、なにこれ!?」
(分からねえ! でもこれ……もしかして!)
光はゆっくりと侵食しながら、私の体を包み込んだ。
その青白い光は、人の作る照明のようながら、どこか自然の温かみを感じた――。