05
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ふと気配がして、ミツルは飛び起きた。
仮眠をしてくるといってどれだけたったのか分からないけれど、遮光布の向こうからうっすらと光が射し込んできているところを見ると、そこそこ時間が経っているようだった。
床に薄い布を敷いた上で寝ていたので、身体が痛い。いやそれよりも、部屋には鍵をかけていたのに、どうして自分以外の気配がするのだろうか。
しかもこの気配はミツルが常に感じているものでもあったが、こんなにはっきりしているのは初めてかもしれない。
ミツルは慌てて気配がする方へ視線を向けると……。
「は? なんでおまえがここにいるんだ」
そこには、ちょこんと座り込んだナユがいた。
ミツルが気がついたことにナユは嬉しかったのか、まるで花がほころぶような華やかな笑みを浮かべてこちらを見た。
その笑顔にミツルはなぜかどきりとしたが、相手がナユだということを強く言い聞かせ、不機嫌な表情を浮かべた。
「なんだ、昼なのに夜這いにきたのか」
どうにも調子が狂うと思いながら、ミツルはナユが怒りそうな言葉を選んだのだが、ナユは微笑んでいるだけ。
「……なにをしにきた。俺は寝ていたんだぞ」
さらに不機嫌に口にしたのだが、ナユは笑っているだけだ。
「笑ってないでなにか言えよ、ナユ」
困ったミツルはナユの名を呼んだが、首を振られただけだった。
「あのな、用事がないのなら出て行ってくれないか」
ミツルは立ち上がり、ナユの首根っこを掴もうとしたところでするりと逃げられた。
「やさしいのはこわいの」
その一言と気配でこれはナユではないと悟ったミツルは、盛大なため息を吐いた。
そうだ、この気配ですぐに気がつかなければならなかった。なぜかナユの姿形をしていたから、分からなかった。
ミツルが知っているのは、茶色の長い髪と茶色の瞳を持った女性体だった。
気配は薄いけれど常にあったから、姿が見えなくなってかなり経っていたけれど、それほど気にかけていなかった。
「ごめんね、ミツル。あたし、この子を助けなければならなかったの」
「……は?」
「あたしがいなかったら、この子も、この子の母も死んでしまっていたの」
「あの、意味が分からないんだが」
この人……といっていいのか分からないけれど、この女性の言う言葉はいつもわかりにくい。というか、理解できない。
「あなたが七つの時からあなたのそばを離れてしまって、ごめんね?」
そう言われてみればそれくらいの時から姿が見えなくなっていたような気がした。
そもそもがこの女性は気まぐれだったから、てっきりミツルのことを飽きたのだと思っていたのだが。
「まさかここで再会するなんて思ってなくて、これもやっぱり運命なのかなってうれしかったの」
「……変わってないな、おまえ」
「ミツルは変わったね。大きくなった。だけど、やさしくないのはかわってなくて安心した」
「あのな」
「やさしいのは嘘も偽りも怖さも悲しさも隠すから、こわいの」
「相変わらずわかんねーな、おまえ」
「おまえって、ひどい。きちんと名前、教えたのに。呼んでくれたらどこにでも行くって約束したのに」
「でもおまえは俺よりそれを優先させたんだろう?」
ミツルにそう言われてしまえば、女性には反論できなかった。
「あいかわらず手加減なしなのね」
「手加減してるぜ、これでも」
「ひどい」
ひどいのはどちらだと思ったけれど、ミツルは口にはしなかった。
「まあ、気配はあったから死んでないのは分かっていた」
「ひどい」
「ひどくないだろ」
「……あたしのこと、忘れてた。この子の名前は呼んでくれるのに、あたしの名前は呼んでくれないんだ」
「拗ねてるのか」
「……拗ねてるもん。ミツルはひとりでも平気なのかもしれないけど!」
えぐえぐと年甲斐もなく泣き出しそうな女性にミツルは疲れを感じたが、ミツルは仕方なしに名前を呼ぶことにした。
「泣くな、シエル」
女性を慰めている自分にミツル自身があり得ないと思ったが、女性──シエル──は母親の次に苦手な女性だった。
シエルに泣かれると調子が狂う。どうすればいいのか分からなくて、おろおろしてしまう。
恋人のミチに泣かれても何とも思わないのに、母親とシエルだけは泣かれるのが嫌だった。
渋々という感じで名前を呼んだのだけど、シエルは先ほどまで泣きそうだったのに、急に笑顔になった。
「ミツル、覚えてくれていたんだ!」
見た目はナユのはずなのに、どうしてだろう、その笑顔がまぶしくて仕方がない。
ミツルは目を細め、照れを隠すために頬をかいた。
「ミツルが困ってるみたいだったから、出てきたの」
「はあ、それはどうも」
「あたしが手伝ってあげるから、もう大丈夫だよ!」
「……あてにしてない」
「ほんと、ひどい! きちんと助けられたら、褒めてね?」
シエルはそれだけ言うとひらりと身軽に立ち上がり、部屋を出ていった。
部屋に残されたミツルは呆然と見送っていたが、すぐに状況を思い出した。
「おい、シエル! むやみに外を……」
慌てて追いかけて廊下を見たが、すでに気配がなくなっていた。
ミツルは部屋に戻り、突然の出来事に混乱している頭を整理することにした。
ミツルの記憶にあるシエルは、ぼんやりとしていて肉体を持っていなかった。だけど言葉を交わすことは出来たし、なによりもミツルにインターとしての知識と技術を教えたのは祖父とシエルだった。
シエルが言うように、ミツルが七歳の頃にシエルはミツルの前から姿を消した。
シエルは常にミツルのそばにいたわけではなかったし、気まぐれに来ては気まぐれに教えてくれていたので、来なくなったことに対してそれほど気にしていなかった。
しかも姿形は見えなくても、シエルの気配だけは不思議とあったから、どこかにいるのだろうと思っていた。
結局、シエルが何者なのかは分からなかったけれど、ミツルにとってはシエルがなんでもよかったのだ。
気配は常にあったから改めて認識することもなかったのもあり、シエルが言うように存在なんてすっかり忘れていた。
「やさしいのはこわい、か」
相変わらず謎の言葉だなと思ったけれど、ミツルはシエルのその言葉の意味が分かる経験は痛いほどしていた。
インターとして生まれたこと。
シエルがそばにいた頃はその意味さえ分かっていなかった。
やさしさの裏には思惑があるのよ。
そういってやさしいのはこわいことだからと言っていたシエルの言葉は、シエルがいなくなってから思い知った。
「やさしいのはこわいって言えるのは、おまえがやさしすぎるからだよ、シエル」
インターとして苦い思いばかりしてきたミツルはシエルの甘ったれた言葉に反論した。
「おまえもいい加減、諦めればいいんだ」
ここにはいないシエルに対してミツルは思わずぼやいてしまう。
祖父もシエルも優しかった。だからそれが普通だと思っていた。
だけど現実を知って、ミツルは失望した。
ミツルがインターだと知った人たちは、みな一様に手のひらを返したかのような態度をとってきたのだ。
ミツルだって好きでインターの力を持って生まれてきたわけではない。
それにインターがいなければこの国は動く死体であふれて死者の国になってしまうというのに、死の象徴であるインターはどこに行っても忌み嫌われた。
国だっていてくれないと困ると口先だけで言って、なにもしてくれなかった。
こんな中でミツルはよくやさぐれなかったなと自分でも感心する。
そこはやはり祖父とシエルの影響が大きいのかもしれない。
ミツルは何度もこんな国、滅びてしまえと思ったけれど、その度にシエルの『やさしいのはこわい』という言葉を思い出していた。
だからこそミツルはインターたちのためにより所を作ろうと思えたし、実行できた。
インターの本部を設立して五年。上手く機能しているとは言い難いけれど、少しずつでも確実に変わってきているような気がしていた。
照れくさいから口に出しては言えないけれど、ミツルは今、シエルに感謝していた。




