26話 失態
ローディス国第三騎士ゼフマーは、第三騎士団長ダレスの特命を受け、バルドゥク国の王都に住む、ある貴族の調査をしていた。
その貴族には、先日、何者かによって殺害されたファルジバ・ヴァイザ伯爵に、ローディスに避難していたバルドゥクの難民を虐殺するよう取引を持ち掛けた疑いがかけられていた。
貴族の名は、ミュリア。爵位は侯爵。ヴァイザの娘が嫁いだ子爵家と類縁関係にあった。
侯爵が王弟ヒュザード派だということは、王都に住む人々の会話に耳を傾ければすぐに分かった。
ゼフマーは職を探している人間を装い、侯爵家の使用人に探りを入れた。最初、彼らの口は一様に重かったが、愚痴や不満の方向に話を持っていくと、溜まっていたものを吐き出すように勢いよく話し始めた。
主人の情報を軽々しく外部の人間に話すなど、貴族に仕える者としてあるまじき行為だが、それはつまり使用人たちの心情の表れでもあった。彼らの口を重くしていたのは、忠誠心などではなく恐怖だった。
自分は今の職務に誇りを持っている。『戦の護』であるフェリシアに忠誠を誓ったことは、喜びこそすれ苦痛に感じたことなど一度もない。また、これからもないと確信をもって断言できる。ゼフマーは、現状に嘆く使用人たちに憐みの感情を抱いた。
ヴァイザ伯爵との取引は、どうやら王子を亡き者にせんがために画策したことらしいとの情報を得たゼフマーが次にしたことは、館への侵入だった。動かぬ証拠を押さえなくてはならない。見つかる危険は当然あったが、やれる自信はあった。というより、なければダレスからこの任を命じられることはなかっただろう。単独任務を命じられるということは、自分の腕が信頼されている証拠。その期待を裏切るわけにはいかない。
「『戦の護』に絶対の忠誠と絶対の勝利を」
フェリシアの前で唱える誓約の言葉を呟き、ゼフマーはミュリア侯爵の館に足を踏み入れた。陰から陰へと移動し、侯爵の書斎を目指す。
様子がおかしいと感じるまで、そう長くはかからなかった。侵入している以上、誰にも見つかるわけにはいかない。しかし、誰とも遭遇せずに目的の部屋に辿り着けるなど、館で働く人の数を考えればあり得ない。
人の気配を感じれば物陰に隠れてやり過ごす。それを何度も繰り返しながら進んでいくのが、これまでの常であったし、当然のことのはずだった。
だが――
「気配が、ない?」
ゼフマーがいる場所は最上階の四階。地階にいる人間の気配まで感じることはできないが、少なくとも三、四階に誰かいるとは思えなかった。静かすぎる。不自然なほどに。
一旦引き返すべきか。これ以上は行かない方がいい、何かあると頭で警鐘が鳴る。しかし、戴冠式まであと四日。ゼフマーは一度こぶしを握ると、暗闇にその身を溶け込ませ、広い廊下を駆けた。
侯爵の書斎に着くと、人の気配がないことを確信してからそっと扉を開け、中に入る。月明かりが差し込んでいない部屋は暗く、闇の中にいるようだった。
「人目を忍ぶには丁度いい。が、早く出るべきだな。この館の様子はどう考えてもおかしい」
緊張と焦りを覚えながら執務机に近づき、引き出しに手をかける。
そのときだった。
「うっ!?」
首筋に強い衝撃を感じ、机に倒れこむ。
あり得ない。入る前に人の有無は確認した。この部屋は間違いなく無人だったと断言できる。しかし、いま誰かに攻撃を受けたことは紛れもない現実。
「ローディスの騎士。貴様のせいで戦が起きる」
冷たささえ感じない、全くの無の声。その声の主を見ようとゼフマーは身体を起こし、腰に下げた剣に手をかけながら振り向こうとした。
「だ、だれだ、お前はっ――うぐぅっ」
だが、その前にもう一度首に衝撃を受け、床に崩れ落ちる。
薄れゆく意識の中で、ゼフマーが最後に見たものは、自分を見下ろす紫の瞳だった。
「――話は以上だ。騎士としてあるまじき失態を演じてしまった。フェリシア様になんとお詫びすればよいのか……。もっとも、お会いすることは二度と叶わないのだろうが」
腐った水と湿った土の臭いが染みついた、バルドゥクの王城の地下にある牢の中で、ゼフマーは自嘲気味に笑った。
気が付いたときにはここにいた。汚れ破けた衣服に傷だらけの身体。何度も尋問という暴力を受けた。
しかし、痛いのは身体よりも心だった。任務を全う出来ず、ダレスの期待に応えられなかったことが、彼の顔に暗い影を落としていた。
「いえ、貴方を死なせはしません。これは私個人の思いではなく、ローディスの総意です。ですから、今から言うことをしっかりと聞いてください」
「……お前は一体誰なんだ? バルドゥクの人間ではないのか?」
ゼフマーは鉄格子越しに立っている黒髪の男を見た。驚くほど綺麗な顔立ちのこの男は、見張りの兵士が慌ただしく駆けていったすぐあとに、どこからともなく姿を現し、牢屋に入れられた経緯を教えて欲しいと言ってきた。男の持つ雰囲気にのまれ、つい話してしまったのだが、彼は一体何者なのか。
「私はローディスの人間です。素性は話せませんので信用してもらうしかないのですが」
黒髪の男は困ったように少し眉尻を下げる。
「今さっき、俺を助けるのはローディスの総意だと言ったな。では、陛下やダレス団長はお前を知っているというのか」
「それを知りたいのであれば私の指示に従って下さい。もうすぐ兵士が戻ってきます」
「…………わかった」
短い沈黙のあと、ゼフマーは頷いた。嘘を言っているようには見えない。ならば男の正体は分からなくとも、助かる望みがあるのであればそれに賭けてみようと思った。
死ぬことが怖いわけではない。ただ、こんな訳の分からない死に方は嫌だった。
「ありがとうございます。では手短に話します。と、まだ名乗っていませんでした。私のことはライルと呼んで下さい」
ライルと名乗った男は、一瞬安堵の表情を浮かべてから、明日の戴冠式で起こるであろう事態の説明を始めた。




