24話 動き出す事象
「塔まで送ろう」
「ザハーノ様のお手を煩わせるわけにはまいりません。一人で戻れますので」
「気にする必要はない。火がなくては足元が見えぬだろう。ついて参られよ」
ザハーノはライカの返事を待たずにさっと身を翻す。明かりがなくても歩くのに支障はないが、それを告げるわけにもいかず、ライカも彼に従い厩舎を出た。
ぬかるみが少ないところを選んで進み、時折後ろを振り返っては、ライカが問題なく歩けているかを確認する老練の英雄からは、無骨な優しさが伝わってくる。
「一つ、訊いても構わないだろうか」
裾を少し持ち上げ、エルといたときよりも幾分ゆっくりと歩を進めていると、前を行くザハーノが徐に口を開いた。
「何でございましょう?」
「セアルグという男を知らぬか?」
不意を突かれ一瞬呼吸が止まる。何故、彼の口からセアルグの名が出てくるのか。ライカは動揺を悟られぬよう慎重に言葉を紡いだ。
「……セアルグ、でございますか」
「いつからかヒュザード様の傍で見かけるようになった男の名だ。殿下は相談役だと仰られているが、常にフードを目深に被っていて誰も顔を知らぬ。影のように虚ろな存在。唯一分かっているのが、と言っても確証があるわけではないのだが、奴がローディスの人間らしいということなのだ」
セアルグが次期国王の相談役。何らかの形でバルドゥクに関わっているとは予想していたが、まさかそんな中枢にまで入り込んでいるとは。己の復讐のためにこの国を動かすつもりなのだろうか。
ライカは火の消えたカンテラの取っ手をぎゅっと握りしめた。
「すまぬ。侍女殿があのような男を知るはずもないな。奴の正体を掴みたいと思うあまり焦っていたようだ」
ザハーノは沈黙を否定と受け取ったらしい。一度首を横に振るとライカから視線を外し、再び前を見て歩き始めた。
南東の塔が見えてくる。扉の前にはエルが伏せっており、その両側、扉の両脇にはローディスの兵士がやや緊張した面持ちで直立していた。噛まれるとでも思っているのだろうか。
「ザハーノ様」
歩く方向を変え黙って去ろうとする特務隊長を呼び止め、ライカは彼に近づいた。
「何だ」
「お送りいただきありがとうございました。これより先は私の独り言でございます。どうかお聞き流し下さいませ」
雲の隙間から漏れてきた月光が二人に降りそそぐ。カンテラの明かりがなくとも、はっきりと互いの顔が見える。月の光に照らされたライカは、はっとするほど美しく、ザハーノは知らず唾を飲み込んだ。
「…………」
「その男は、決してヒュザード様の味方ではありません。バルドゥク国の味方でもありません。彼がもたらすものは、混沌、破滅、絶望。決して栄華や繁栄、平和などではないでしょう。では、失礼致します」
一礼してエルの許へ向かう。
何故と訊き返されれば答えられない。だが、ザハーノには告げても構わないと思った。長きにわたりこの国を護り続けてきた、そして次の国王に疑問を感じているであろう彼になら。
(それに、おそらくザハーノ様は存じていらっしゃる)
ライカの右手に握られているカンテラ、その本来の持ち主を。厩舎に誰がいたのか、彼は気付いていたに違いない。その上でライカがついた嘘に乗ったのだ。
「ご苦労様です。エル、部屋に戻りましょう」
扉を開けてくれた兵士に頭を下げ、ふさふさの深緑色の毛についていた木の葉を取りながらエルを中へ促す。
自分に宛がわれた四階の部屋に戻ろうとすると、階段の途中に、恐い顔をさらに恐くしたダレスが立っていた。ライカの姿を見て、彼は僅かに表情を和らげる。しかし、眉間に刻まれた皺はそのままだ。
「戻ったか」
「ドウカシタカ、黒ノ団長」
エルの問いにダレスは無言で頷くと、視線を階下へと向けた。二階と三階は騎士と兵士に割り当てられおり、微かに話し声が聞こえてくる。それに三階にある渡り廊下の前には兵士が立っている。
「こちらへお越し下さいませ」
余人に聞かれたくないというダレスの意思を汲み取ったライカは、彼を自分の部屋へと案内した。扉を開け机に置かれたランプに火を点ける。
「エル、閉めてもらえますか」
一番後ろにいたエルが、前足を使い器用に扉を閉める。ダレスは振り返って口を開きかけたが、すぐに閉ざしてライカに向き直った。漆黒の瞳の中で赤いランプの炎が揺らめく。
「……バルドゥクに潜入していた騎士の一人と連絡が取れなくなった」
ダレスの口から吐き出された言葉に、ライカの眼が細められる。
「殺された、と?」
「分からん。いま他の騎士に探らせている。が、連絡が取れなくなった騎士には、ヴァイザ伯爵の文の相手が誰かを調べろと命を下していた。よほどの相手でない限りそうそう遅れをとるとは思わんが、もしかするとしくじったのかもしれん。それともう一つ、ローディスとの国境付近の森に兵士が集まりつつあるらしい」
「……ローディスに戦を仕掛けるつもりなのでしょうか?」
「我が国に攻め入る大義名分などないのだがな」
確かにその通りだ。だが、逆に言えば大義名分さえあれば攻め込んでくるかもしれないということだ。
この戴冠式でバルドゥクが手に出来る大義名分があるとすれば、それは……。
部屋の中に沈黙がおりる。長い、長い沈黙。もう少しで全てが一つに繋がる気がするのに、決定的な何かが不足している。
「疲レタ頭デ考エテモ何も得ラレヌダロウ。ソレニ我ハ言ッタハズダ。焦レバ視野ハ狭クナルト」
顔に暗い影を落とすライカとダレスを尻尾で叩くエル。彼は部屋の隅に行くと、その場に伏せて丸くなった。重苦しかった部屋の空気が、ふっと軽くなる。
「そう、だな。ライカ、夜が明けてからもう一度話そう。俺は部屋に戻る」
深く息を吐いたダレスはそう言って部屋の扉を開けた。
「承知致しました。お休みなさいませ、ダレス様」
頭を垂れて黒髪の騎士団長を送り出す。扉を閉めると、ライカはそこに凭れかかった。
セアルグは次期国王を唆して戦を起こすつもりなのだろうか。それが復讐だと? 納得できなくはないが、しっくりこない。戦を起こすだけではない気がする。
(ヒュザードの相談役となった真の狙いは――?)
部屋の中を彷徨っていたライカの視線は、ある物の上で止まった。
「返さないといけませんね」
扉から離れ、机の上の火の点ったランプに息を吹きかける。ランプの隣には、厩舎にいた男が置いていった、火が消えて冷たくなったカンテラがあった。




