2話 闇
黒髪に銀の瞳をした人物は、自分にあてがわれている部屋に戻ると一つに纏めていた髪を解いた。着ていた服を脱ぐと浴室に向かう。服を着ていたときは性別がよくわからなかったが、一糸纏わぬ姿は間違いなく女だった。
勢いよく頭から水を被れば、浴室の床に黒い水が流れる。と、同時に女の髪の色が黒から銀へと変化し始めた。何度も水を被り、髪の色が完全に銀色になると、女は浴室から出て身体を拭き、先ほどとは違う服を身につける。
鏡で己の姿を確認すると女はベッドに入り、つかの間の睡眠を取るために静かに眼を閉じた。
女は『闇』と呼ばれる組織の中で生きてきた。物心ついたときにはもうそこにいたので、『闇』での生活を疑問に思ったことはなかった。命令されれば何でもしたし、それを当然のことだと受け入れてきた。死にそうになったことも一度や二度ではなかった。しかし、死に対して恐怖を感じたことは一度もなかった。
けして楽しい生活ではなかったが、女には心を許せる人間がいた。自分を妹のように可愛がってくれるたった一人の人間。女はその人間を兄と呼び、慕った。頼れるものは己の力のみ、誰も信用してはならないと教えられていた中で、その人間のことだけは信じていた。信じられていた。この人がいれば『闇』での生活も耐えられると思っていた。
そんな女の生活は突然終わりを告げる。王が『闇』壊滅を騎士団に命じたのだ。騎士団は国の精鋭。いくら『闇』でも無事では済まなかった。次々と騎士の剣に倒れていった。
兄と慕っていた人間が死んだ。女を逃がすために囮になったのだ。女は、自分が兄と呼んだ人間が血を流して地面に倒れるの見た。目の前が真っ暗になった。茫然としているところを騎士に見つかり、女は深手を負ってしまった。何とか逃げたものの、血を多く失い過ぎてしまい、ついには道端に倒れた。どくどくと身体の中から血が外に流れていくのがわかる。ああ、自分はここで死ぬのだ。女は薄れゆく意識の中で思った。しかし怖いとは感じなかった。兄と同じところにいけるのだと思えば、嬉しくすらあった。女は笑みを浮かべながら意識を手放した。
女が目を覚ますと、そこは見慣れぬ豪華な部屋だった。どうして自分は生きているのか。手当てされた傷を眺めながらぼんやりと考えた。そこへ一人の少女がやってきた。少女はこの国の王女だった。女が倒れているところを、偶然馬車で通りかかったのだという。女は何故助けたのかと少女に訊いた。それから少女を責めた。なぜ『闇』を滅ぼしたのか、なぜ私達が殺されねばならなかったのかと。
少女は女が『闇』の人間だったことに驚いたが、けして彼女の言葉から逃げることはせず、彼女の目を見て理由を話した。そして最後に、女より間違いなく年下の少女は、きっぱりと言い切った。『闇』はこの国の民を脅かす存在だったのだと。
女はそのとき初めて自分のしてきたことに疑問を覚えた。だが、同時にどうでもいいと思った。『闇』がなくなり、兄と慕っていた人間が死んだのだ。女に生きている意味はなかった。自分たちが悪だというのなら、早く殺せばいい。冷たい声で少女に言った。
しかし少女は女を殺さなかった。毎日傷の手当てをしては取り留めもないことを話していく。女には少女の行動が理解出来なかった。自分は少女が言った国を脅かす存在の一員なのに。だから女は訊いた。何故殺さないのかと。少女はあっさりと答えた。
――だって、貴方はもう『闇』じゃない。私の友達だもの
その時の少女の笑顔が女の空っぽの心に届いた。
それから女は徐々に少女と言葉を交わすようになった。身体の傷が治るころには時折微かにだが笑顔を見せるまでになった。兄と呼んで慕っていた人間はいなくなった。だが、自分のことを友だと呼んでくれる人間が出来た。女の心に温かいものが流れこんでくる。
傷が完治すると、少女から自分の侍女にならないかと言われた。人を殺すことしか知らないのに、そんなものにはなれないと女は断ったが、少女の根強い説得に根負けした。
侍女の仕事を覚えてしばらくすると、王に呼び出された。もしかして処罰されるのかと女は不安になった。なにせ王は『闇』の壊滅を命じた人物なのだ。殺されるのかもしれないと思いつつ、女は王の前に跪いた。しかし、王は女を殺したりはしなかった。鋭い眼差しの中に優しさを滲ませてこう言ったのだ。
――人を助けたいと思うか
危険な任務だと説明されたが女は受け入れた。今まで誰かを傷つけることしかしてこなかった女は、今度は誰かを助けてみたいと思ったのだ。
その日から『緋の扉』が誕生した。
女の名をライカ、少女の名をフェリシアという。