14話 兄
何の感情も宿していなかったライカの銀の瞳に、迷いの色が浮かぶ。それを男は見逃さなかった。短剣を逆手に持ち、ライカの喉をめがけて斬りかかる。
「兄さん……」
男に兄と慕った人の姿が重なる。反射的に後ろに跳んで攻撃をかわしたものの、先ほどまであった禍々しい闇の気配はすでにない。死ぬわけにはいかないという思いと、セアルグになら殺されてもいいという相反する思いがライカの行動を鈍らせる。
「ローディスに復讐する。それがセアルグの望み。ローディスの犬に成り下がったお前は、望みを叶える邪魔にしかならない。俺が刺し違えてでもお前を殺す!」
左手から血を滴らせながら男は右手の短剣を振りかざした。その直後、
「止めろ!」
声と同時に剣と剣がぶつかり合う金属音が辺りに響く。
「ダレス、様」
現れたのはダレスだった。男の短剣を弾き返し、ライカを庇うようにして相対する二人の間に入る。ちらりと後ろを振り返り、ライカが腕から血を流しているのを見たダレスは、追いかけることを一瞬でも躊躇した自分を責めた。怒りで剣を握る手に力が入る。
「そこをどけ!」
「断る」
「ならばお前も死ね!」
男は冷静さを失っていた。相手が何者なのかを考えることなく、攻撃を繰り出す。ダレスは造作もなく短剣をかわし、上段から斬ろうと大剣を振り上げた。だが、
「っ!?」
剣を振り下ろす瞬間、礫のようなものがどこからともなく飛んできた。ダレスはライカを抱えて大きく横に跳び、大剣で礫を弾く。
「そいつの相手はお前には無理だ。引け、ロウジュ」
(この、声は……!)
ダレスの腕の中でライカは身を硬くした。忘れるはずもない、もう二度と聞くことはないと思っていた、懐かしい声。姿は見えなくてもそこにいるのが誰なのか、もはや疑いようがない。
「セアルグ……本当に生きていたのですね」
ダレスの大剣に弾かれた礫が地面に散らばっている。月光を反射して光るそれは、セアルグが好んで使用していた黒曜石。彼は石を指で弾いて飛ばす指弾の技に長けていた。『闇』の中でも彼の右に出る者はいなかったほどだ。そんな彼が一番得意としていたのが、姿を見せず気配を消したまま、対象に攻撃すること。当時のライカは攻撃を防ぐのが手一杯で、一度も見つけ出せたことはなかった。
「俺はまだ――」
ロウジュと呼ばれた男は納得がいかない様子だ。反論しようと口を開く。
「引け」
だが、セアルグは最後まで言わせなかった。有無を言わせぬ強い口調で男に撤退を命じる。
「……分かった」
ロウジュは悔しさを顔に滲ませながら、踵を返して町とは反対の方角に駆け出した。彼の姿が闇にまぎれ、見えなくなると、指弾の攻撃が止まった。
「ライカ、綺麗になったな」
姿も気配もないまま、声だけが聞こえる。
「セアルグ……」
「俺と一緒に来い。お前とは戦いたくないんだ」
「姿を現せ」
ライカを後ろに庇いながら周囲を油断なく警戒するダレス。一対多数の戦いは得意でも、気配を消すことに長けた暗殺者との戦いにはあまり慣れていなかった。とはいっても、ただの暗殺者であれば、第三騎士団長である彼の敵にはなり得ないのだが。
「ライカ」
兄と慕っていたころと変わらない優しい声。十年前に戻ったような錯覚を覚える。無条件に諾と答えそうになる。だが、今は十年前とは違う。守るべきもの、守りたい人が出来た。いつ死んでもいいと思っていたあのころとは違うのだ。
「ライカ」
ダレスが後ろを振り返ってライカの名を呼ぶ。滅多なことでは表情に変化が現れない彼の顔には、微かな焦りの色が浮かんでいた。そのことを意外に思うこと数瞬、ライカはダレスが自分を心配してくれているのだということに気付いた。自然と口元に笑みが浮かぶ。もう迷いはなかった。
「セアルグ兄さん……いえ、セアルグ。私は貴方の許には行きません。私の在るべき場所はローディスなのです。この国と姫様を護ることが、今の私の役目であり望みでもある。貴方がこの国の平和を脅かすというのであれば、私は私の持てる力全てで、貴方を倒します」
ダレスの前に立ち、前方の細い木をじっと見る。ライカの言葉を聞いて動揺したのか、一瞬だけ微かに空気が揺らいだ。
「……そうか。残念だが仕方ないな。だが俺は諦めない。今日は退くが必ず目的を果たす……お前を殺してでも」
その言葉を最後にセアルグの気配が完全に消えた。夜の平野に相応しい完全な静寂が戻ってくる。
(さよなら、兄さん)
ライカは足元に落ちている黒曜石を一つ拾うと、ぎゅっと握りしめた。
「ライカ、すぐに怪我の手当てを」
セアルグがいなくなったことが分かったらしいダレスが、剣を鞘におさめライカの腕を掴む。
「大丈夫です、かすり傷ですので。それよりダレス様」
「な、なんだ」
銀の瞳にまっすぐ見つめられ、動揺したダレスは息を呑む。
「来て下さってありがとうございました。ダレス様がいなければ私は……」
セアルグの誘いに心が揺らいだのは事実だ。その迷いが断ち切れたのは間違いなくダレスが傍にいたから。気のせいかもしれないが、行くなと引きとめられた気がしたのだ。
「……帰るぞ、俺たちの在るべきところに」
「はい、ダレス様」
恥ずかしさでライカの腕を掴んだまま歩き出したダレスは気付かなかった。ライカがはっきりと笑みを浮かべていたことを。