表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/14

8、革命のエチュード

 ふたりが隠し場所に頭を悩ませていると、五十嵐から井島に連絡が入った。夜になっても七枝が帰ってこない、連絡もない、という内容だった。

 そりゃそうだろう、拉致監禁されているのだから。

 そのことについて五十嵐に伝えるべきか井島は悩んだが、とても説明している時間がないこと、ただでさえ動揺している五十嵐にこれ以上の不安要素(七枝が若い男に攫われたこと)を与えるのは厄介なことになりそうなので、やめた。

 携帯をしまいながら、ごめんなさい、と声に出さずに謝る。あとでゆっくり説明させてもらいます。


「で、どこに隠します? 駅のロッカーとか?」

「人の多い場所は避けたほうがいいんじゃないかな。隠すところを誰かに見られる。あと駅は屋外には入らないだろう」

「うーん、山の中とかじゃ奴が探しづらいだろうし、湖に沈めるのもだめそうですね」

「山の中……」


 井島はその単語が妙にひっかかったので、繰り返した。山の中といえば、何か、あるのではなかったか。

 山の中の何か。ものを隠すことのできる場所。

 ──山の中の、廃屋。


「それだ」


 気づいたら声に出していた。


「え、何かいい案が?」

「山の中だよ、山の中にいい場所がある」

「そうなんですか? で、それは今夜じゅうに行ける距離にあるんですか?」

「いや、他県だから、車で行ったら何時間もかかる」


 それじゃあだめじゃないですか、と間抜けな声を出す木崎。

 しかし井島には確信があった。その場所に行くもっとも簡単で早い方法を、井島は知っている。

 木崎には、とりあえず湖に向かうように言った。

 湖というのは、S市の隣、月重市にある妙ちくりんな形をした湖、月重湖のことである。井島と木崎にとっては懐かしい思い出の場所だ。いや、懐かしいのは木崎にとってであって、井島にしてみれば死にかけた呪いの場所でしかないのだが。

 三十分もしないうちに、ふたりは月重湖に到着した。

 龍の寝姿と呼ばれる湖は、シーズン中の昼間ならそこそこの賑わいを見せるのだが、今は季節も悪ければ夜である。ふたりが龍の頭から右前脚に向かう間、誰にも会わなかった。

 鞄から本を取り出し、木崎は問う。


「まさかここに沈めるなーんて話じゃないでしょうし……湖ってことは、たぶん俺の出番なんでしょうね?」

「もちろん」


 井島が頷くと、木崎は湖に近付く。

 彼が呼吸を整えると、水面から、波紋が消える。夜の湖でそれは神秘的な光景でもあるし、不気味でもある。

 この儀式を木崎たちは、鏡を開く、と呼んできた。

 水鏡。それは、いのちを映し出す水底の鏡。木崎は腕まくりをしてから、その中に手を差し入れる。そこには彼自身の持つ鏡、と呼ばれるものがあって、そこにはいくつもの光の筋が浮かび上がっていた。

 それらはかすかにヒトの形をしていて、つねにゆらゆらとゆらめいている。

 だが、木崎にはそれが見えていない。彼は鏡を開くことはできても目視する力が弱いらしい。だから「未だに鏡が見えない」と言っていたのだ。

 そんなわけで専ら、木崎の水鏡は手探りである。


「で、井島さん、ここから何をすればいいんですか」


 木崎の言葉に、井島は自分の本を取り出した。包みに入ったままのそれと一緒に、木崎のそれも手に取る。

 どちらもまったく同じ黒い装丁に、古田教授の手書きの署名が入っている。間違いなく本物だ。

 井島は今一度それをしっかりと確認してから、こう言った。


「木崎くん、僕をねじ曲げてくれ」

「……はい?」


 木崎は何を言っているんだと言いたげなようすで井島を見る。


「冗談、じゃ、ないですよね」

「もちろん」

「……馬鹿言わないでくださいよ、こんなところで曲げたら、井島さん今度こそ溺れ死にますよ!」

「きみが助けてくれることを祈ってるよ」


 以前ここで、連続殺人事件があった。その犯人は木崎たちと同じく水鏡を使える人間で、井島は彼女──恋人を失った女性が犯人だった──を追い詰めた際、窮鼠猫を噛むというやつで、水鏡による攻撃を受けたのだ。

 鏡に映るいのちの筋を掴んでぐしゃぐしゃに曲げる、という方法なので、ねじ曲げる、と呼んでいる。それをされた人間は、猛烈な負の感情に支配され、ひどいときには自殺する。

 井島は湖の傍でそれをされて、溺死しかけた。

 その場にいた人間の話では、ふらふらと湖のほうへ向かっていって、倒れるように飛び込んだのだそうだ。井島のほうではそれを全く覚えていない。

 その代わり、井島には別の記憶がある。

 それをもう一度、再現したい。


「頼むよ。こんなことはきみしかできないんだから」


 二冊の本を抱えて、井島は繰り返す。僕をねじ曲げてくれ。

 井島があまりにも真剣に言うので、木崎も随分と悩んだようだった。水底で薄い緑色がかった光に触れながら、──それこそが井島自身のいのちの筋なのだが、考えていた。

 ふいに木崎が口を開く。


「ほんとうに、いいんですね」


 井島は頷く。


「覚悟はできてる。一度は死ぬだろうと思った身だ」


 昨夜、交番で考えたことだった。あのときは死ぬ気などさらさらなかったが、でも、そのあと彼女に助けられてしまった。

 あのとき七枝が現れなかったら、井島は死んでいたかもしれないし、七枝が一十に連れ去られることもなかったかもしれない。

 ともかく、この偶然の責任は、井島にある。

 だから責任をとって、彼女を助ける。どんなことをしてでも。


「あーっもう、井島さんて、変っなとこ頑固ですよね!」


 木崎が溜息をついた。どうやら彼は、どうやって井島を思いとどまらせるかを考えていたらしい。そしてやっと諦めたようだ。

 やりますよ、という声を聞いた。

 その直後に起きたことは、井島にはよくわからない。わからないけれど、懐かしい感覚があった。

 ぐらぐらと身体の芯が揺れる感じ。胸の奥がずくりと痛んで、眼を開けているのが辛くなる。そのうち耳鳴りが始まる。

 ──井島さん、あいつを見つけました、もう死んでました。

 後輩の、誰かの死を告げる声。

 井島はそのときなんと答えたのだったろうか。どういうことだ、落ちついて説明しろ、とでも言ったのだろう、たぶん。

 今度は違う。

 ──死んでるのはおまえだ、彼女じゃない。

 そう言い返した。耳鳴りに話しかけるのはこれが初めてだった。

 ──そうですね。

   井島さん、短い間でしたけど、ありがとうございました。

 なぜか、耳鳴りのくせに、そいつは返事をした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ