8、革命のエチュード
:
ふたりが隠し場所に頭を悩ませていると、五十嵐から井島に連絡が入った。夜になっても七枝が帰ってこない、連絡もない、という内容だった。
そりゃそうだろう、拉致監禁されているのだから。
そのことについて五十嵐に伝えるべきか井島は悩んだが、とても説明している時間がないこと、ただでさえ動揺している五十嵐にこれ以上の不安要素(七枝が若い男に攫われたこと)を与えるのは厄介なことになりそうなので、やめた。
携帯をしまいながら、ごめんなさい、と声に出さずに謝る。あとでゆっくり説明させてもらいます。
「で、どこに隠します? 駅のロッカーとか?」
「人の多い場所は避けたほうがいいんじゃないかな。隠すところを誰かに見られる。あと駅は屋外には入らないだろう」
「うーん、山の中とかじゃ奴が探しづらいだろうし、湖に沈めるのもだめそうですね」
「山の中……」
井島はその単語が妙にひっかかったので、繰り返した。山の中といえば、何か、あるのではなかったか。
山の中の何か。ものを隠すことのできる場所。
──山の中の、廃屋。
「それだ」
気づいたら声に出していた。
「え、何かいい案が?」
「山の中だよ、山の中にいい場所がある」
「そうなんですか? で、それは今夜じゅうに行ける距離にあるんですか?」
「いや、他県だから、車で行ったら何時間もかかる」
それじゃあだめじゃないですか、と間抜けな声を出す木崎。
しかし井島には確信があった。その場所に行くもっとも簡単で早い方法を、井島は知っている。
木崎には、とりあえず湖に向かうように言った。
湖というのは、S市の隣、月重市にある妙ちくりんな形をした湖、月重湖のことである。井島と木崎にとっては懐かしい思い出の場所だ。いや、懐かしいのは木崎にとってであって、井島にしてみれば死にかけた呪いの場所でしかないのだが。
三十分もしないうちに、ふたりは月重湖に到着した。
龍の寝姿と呼ばれる湖は、シーズン中の昼間ならそこそこの賑わいを見せるのだが、今は季節も悪ければ夜である。ふたりが龍の頭から右前脚に向かう間、誰にも会わなかった。
鞄から本を取り出し、木崎は問う。
「まさかここに沈めるなーんて話じゃないでしょうし……湖ってことは、たぶん俺の出番なんでしょうね?」
「もちろん」
井島が頷くと、木崎は湖に近付く。
彼が呼吸を整えると、水面から、波紋が消える。夜の湖でそれは神秘的な光景でもあるし、不気味でもある。
この儀式を木崎たちは、鏡を開く、と呼んできた。
水鏡。それは、いのちを映し出す水底の鏡。木崎は腕まくりをしてから、その中に手を差し入れる。そこには彼自身の持つ鏡、と呼ばれるものがあって、そこにはいくつもの光の筋が浮かび上がっていた。
それらはかすかにヒトの形をしていて、つねにゆらゆらとゆらめいている。
だが、木崎にはそれが見えていない。彼は鏡を開くことはできても目視する力が弱いらしい。だから「未だに鏡が見えない」と言っていたのだ。
そんなわけで専ら、木崎の水鏡は手探りである。
「で、井島さん、ここから何をすればいいんですか」
木崎の言葉に、井島は自分の本を取り出した。包みに入ったままのそれと一緒に、木崎のそれも手に取る。
どちらもまったく同じ黒い装丁に、古田教授の手書きの署名が入っている。間違いなく本物だ。
井島は今一度それをしっかりと確認してから、こう言った。
「木崎くん、僕をねじ曲げてくれ」
「……はい?」
木崎は何を言っているんだと言いたげなようすで井島を見る。
「冗談、じゃ、ないですよね」
「もちろん」
「……馬鹿言わないでくださいよ、こんなところで曲げたら、井島さん今度こそ溺れ死にますよ!」
「きみが助けてくれることを祈ってるよ」
以前ここで、連続殺人事件があった。その犯人は木崎たちと同じく水鏡を使える人間で、井島は彼女──恋人を失った女性が犯人だった──を追い詰めた際、窮鼠猫を噛むというやつで、水鏡による攻撃を受けたのだ。
鏡に映るいのちの筋を掴んでぐしゃぐしゃに曲げる、という方法なので、ねじ曲げる、と呼んでいる。それをされた人間は、猛烈な負の感情に支配され、ひどいときには自殺する。
井島は湖の傍でそれをされて、溺死しかけた。
その場にいた人間の話では、ふらふらと湖のほうへ向かっていって、倒れるように飛び込んだのだそうだ。井島のほうではそれを全く覚えていない。
その代わり、井島には別の記憶がある。
それをもう一度、再現したい。
「頼むよ。こんなことはきみしかできないんだから」
二冊の本を抱えて、井島は繰り返す。僕をねじ曲げてくれ。
井島があまりにも真剣に言うので、木崎も随分と悩んだようだった。水底で薄い緑色がかった光に触れながら、──それこそが井島自身のいのちの筋なのだが、考えていた。
ふいに木崎が口を開く。
「ほんとうに、いいんですね」
井島は頷く。
「覚悟はできてる。一度は死ぬだろうと思った身だ」
昨夜、交番で考えたことだった。あのときは死ぬ気などさらさらなかったが、でも、そのあと彼女に助けられてしまった。
あのとき七枝が現れなかったら、井島は死んでいたかもしれないし、七枝が一十に連れ去られることもなかったかもしれない。
ともかく、この偶然の責任は、井島にある。
だから責任をとって、彼女を助ける。どんなことをしてでも。
「あーっもう、井島さんて、変っなとこ頑固ですよね!」
木崎が溜息をついた。どうやら彼は、どうやって井島を思いとどまらせるかを考えていたらしい。そしてやっと諦めたようだ。
やりますよ、という声を聞いた。
その直後に起きたことは、井島にはよくわからない。わからないけれど、懐かしい感覚があった。
ぐらぐらと身体の芯が揺れる感じ。胸の奥がずくりと痛んで、眼を開けているのが辛くなる。そのうち耳鳴りが始まる。
──井島さん、あいつを見つけました、もう死んでました。
後輩の、誰かの死を告げる声。
井島はそのときなんと答えたのだったろうか。どういうことだ、落ちついて説明しろ、とでも言ったのだろう、たぶん。
今度は違う。
──死んでるのはおまえだ、彼女じゃない。
そう言い返した。耳鳴りに話しかけるのはこれが初めてだった。
──そうですね。
井島さん、短い間でしたけど、ありがとうございました。
なぜか、耳鳴りのくせに、そいつは返事をした。
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