7、籠の中のワルツ
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七枝はまどろんでいたが、物音がしたので目を開けた。
一十が帰ってきたのだ。しかも彼の隣には、暗い顔をした若い女性がいる。まだ一十と同じくらいの歳だろう。
女性は七枝の隣に座らされて、腕を七枝のようにガムテープで固定されたが、こちらはベッドに括りつけられはしなかった。その代わりに足も固定された。まあ見たところ一般人のようだから、これでじゅうぶんに戦闘力を殺いだことになるだろう。
そのあと一十はふたりにスープなどの簡単な食事を与えてから、出ていった。彼はこの部屋では眠らないらしい。
「ああそっか、本は一冊じゃないってことね」
七枝が言うと、女性が眼をぱちぱちさせながらこちらを見た。
「私はS県警捜査二課の五十嵐七枝です。あなたは?」
「あの、捜査一課の木崎明彦の妻です。幸和子と言います」
「……ああ、あのときオメデタだったっていう奥さんね」
七枝と木崎が、そして古田一十が顔を揃えたいつかの事件のとき、ちょうど幸和子が出産間近だったらしい。七枝は知らなかったのだが、事件の間ずっと木崎がそわそわしていたのが気になっていたので、後から聞いて腑に落ちた。
そのことを幸和子に話すと、彼女はちょっと笑った。かわいい笑顔だった。
「じゃあ、五十嵐刑事はあの人や本のこともご存知なんですね」
「七枝でいいよ。そうね……あいつはずっとある本を探してるの。だけど本を持っている人にあいつが近付くと、本を持っているほうが殺されて、本は行方不明になる。だから直接受け取りにはいけない。
とはいえ、わざわざ女ふたり誘拐するか?って話ね」
「そんな……いったいどんな本なんですか、それは」
「なんでも大学教授が超マイナー学説を熱く語った歴史書らしい。回収したのは木崎くんだったから私は見てないけど。もう絶版で、この世には片手で数えるくらいしか存在してないって」
幸和子はそこで納得したように頷いた。
「そのうち二冊が、わたしの明彦さんと、七枝さんの大切な方のところにあるんですね」
「え、あ、いや、……幹樹くんはそういうのじゃないよ」
そういう発想をされるとは思っていなかったので、七枝は不自然に言い淀んでしまった。抑え気味に否定すると幸和子はきょとんとして、
「二課でミキさんというと、井島さんですか?」
と尋ねてきた。正解です。っていうか署外にまで知られてるじゃないか二課のミキちゃん。
聞いたところによると、幸和子と木崎が出逢った事件のときに井島も居合わせたのだそうだ。
その事件は七枝も知っている。S市の隣の月重市にある湖(この監禁場所の候補のひとつ)で、前科犯が次々に行方不明になったという奇妙な連続殺人事件だ。兄の五十嵐警部も少し関わっていたので話を聞かされた。
結局犯人は証拠不十分で殺人罪での逮捕には至らなかったが、なぜか井島が殴られたり溺れさせられたので公務執行妨害と傷害罪で捕まったそうだ。
あのころの井島は絵に描いたように不幸だった。ふつう絵に描くのは幸せだが、井島は違った。
ちょうどその前に後輩が殉職したので、井島はひどく落ち込んでいた。そんなときに殴られるわ溺死しかけるわ、当時の二課では井島を哀れましい目線で眺めるのが流行ったものである。
七枝はむしろ、何度か背中をはたいてやったが。
……そうだ、井島はどうしているだろう。どうやら木崎経由で本を手に入れてしまったようだが、まさか本人はこんなことになるとは露ほども思っていなかったに違いない。
七枝だって思っていなかった。古田一十がここまでするほど本を欲していたということも、もと同僚の井島がそれを手にしていることも、そして井島の人質として自分が選ばれたことも。
どうして酔っていたとはいえ、一十の甘言にのこのこ従ってしまったのだろう。隣の気の弱そうなかわいい奥さんならまだわかるが、この負けず嫌いで素直じゃないことを自覚している七枝が、まんまと騙されてしまうとは。
……殺されるかもしれないよ、なんていう、ちゃちな脅しで。
まずかったのは、七枝はそれが単なる脅しではないと知っていることだった。実際に本を持つ人は死ぬ。それも、ひどい姿になって死ぬのだということを、詐欺師の実例を七枝はこの眼で見ている。
「あの、七枝さん。殺されるって、どういうことなんでしょう」
ちょうど幸和子がそう聞いてきたので、七枝は前の事件のことを思い返しながら、彼女に語って聞かせた。
古田一十が言うに曰く、誰かが彼にあの本を読ませまいとしている。その誰かとは、海からやってくる存在で、彼自身は魚かなにかの妖怪であると考えている。
その「彼女」に殺された人間はみんな、絞殺による窒息死であるという鑑識結果が出ている。その死体には「鋭い突起状のものがある幅の広い布状のもの」で絞めつけられた痕跡がある。
「ひどい死体だった。ああはなりたくないな」
さすがに幸和子もあの木崎の妻だけあって、こういう超常現象的な話題でもきちんと理解してくれた。
「本を手放さないと、明彦さんたちもそうなってしまうの……?」
「たぶんね」
「そんな……明彦さん……」
やはり幸和子も七枝がされたのと似たような脅しを受けてここに来たらしい。下くちびるをぎゅっと噛みしめて夫の安全を願う姿が、いじらしい。
七枝はふと心配になって、子どもはどうしたの、と尋ねた。彼女があのとき生んだ子はまだ幼いはずだ。母親が傍にいてあげなくてはいけない。
ここへ来る前、実家にいたんです。母に預けてきました。というのが幸和子の返答だった。
──子どもは男の子? 女の子?
──女の子です。樹和子っていうんですけど、じつはその名前、井島さんにいただいたんですよ。
──そうなの? 初耳。
──わたしたちが出逢ったときお世話になった人たちから一文字ずつもらおう、って、夫が。男の子なら高任晃也警部からいただいて、晃也の晃に和でアキカズ、女の子なら井島幹樹刑事からいただいて幹樹の樹に和でキワコ、って。
「木崎くんてさあ、前から思ってたけど、変なとこ気障よね」
「ですよねえ。……でも、そこが好きなんです……」
「あーそう……」
若い女の子のいわゆる「キャッ」を間近に見て七枝は思った。やっぱり兄に恋人ができた時点で家を出よう。あの兄に限ってできそうな気はしないけど、そういうことにしておこう。
それにしても幸和子の若さが羨ましい……。
七枝だってまだそう歳ではないつもりだし、もともとこういう性格なのだからどうしようもないのだが。それでもたまには、素直に甘えたりキャッキャウフフしてみたいと思うこともある。
……いや、無理だ。無理。
「でも七枝さん、ちょっとおかしくありません?」
「え?」
悶々としていたところで幸和子に話しかけられて、何のことかわからずきょとんとする。おかしいことに心当たりがありすぎるせいかもしれない。
「その、さっきのお話では、事件のあとで本が見つかったんですよね。それを夫が井島さんに渡したと」
「あ、うん、そうね。木崎くんにはそう聞いたし、古田一十もそう言ってた」
「でも、その魚の妖怪さんは、古田さんに本を読ませたくないんですよね? どうしてもっと確実に処分しなかったんでしょう。事件現場のすぐ近くに捨てるなんて」
「……それは、私も妙だなとは思った」
そんなことをすれば誰かが拾う可能性は高い。そのままゴミ捨て場に直行ということもあるが、拾った人間のうち何人かは、あの本の怪しげな題に興味を持つかもしれない。
魚の妖怪とやらが人間社会に疎いのなら話は別だが、とはいえ彼女は少なくともここ五年くらいは古田一十の周囲をうろついているのだ。
では、なぜ本を処分しないのだろう。古田一十の前には直接姿を現さないのだろう。彼女はいったい、何が目的なのだろう。
「なんだろう……古田一十以外の人間に本を所有させること、とか?」
古田一十が近付くと、本は逃げる。そしてまた別の所有者のもとへ行く。本が一冊でも存在する限り、古田一十はそれを追い続ける。何週間、何カ月、何年でも。
それが目的なのだとしたら?
それは、時間稼ぎのようには見えないか。
もし七枝があの本の内容を知っていたら、この時点であるひとつの仮説を導くことができただろう。だが、現実にはそうではなく、七枝と幸和子はしばらくふたりで唸っていた。
その間もずっと、外は静寂が広がっている。
ここはどこかの山の中だろうか。肌寒くなってきたので、ふたりは肩を寄せ合った。ふいに動物の鳴き声がした。
信じましょう、と、幸和子が言う。
言われなくても大丈夫だ、相手はあのお人好しなんだから。
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