6、閉じられたノクターン
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木崎明彦の携帯電話の着信メロディは、今のところJ・S・バッハの「トッカータとフーガニ短調」を採用している。
ちなみに同僚などからの評判はあまりよくない。突然♪ちゃらりー、ちゃらりらりーらー♪と流れるとびっくりするか、あるいはつい「鼻から牛乳」に変換してしまうのだそうだ。
なお妻からの連絡のみクライスラーの「愛の喜び」だったりする。
それはそうと、木崎の鼻から牛乳……いや携帯が哀愁のフーガを奏で始めたので、周囲にいた同僚たちがびくついたりくすくす笑いだした。木崎もつい一緒に笑いそうになりながら、了承をとって電話に出る。
「はい、一課の木崎です」
『もしもし、交通課の井島だけど──』
「あれ、井島さんから俺にかけてくるなんて珍しいなあ!」
木崎の口から井島の名前が出ると、室内(ちなみにここは刑事室)がざわめいた。井島幹樹は、刑事の中ではじつはちょっと名の知られた人物なのだ。なぜか知らないが刑事部長が井島のことを「俺のお気に入り」などと言ったことがあるからである。
ともかく木崎は井島と話すのが少しばかり久しかったので、果たして何の用だろうかと耳を澄ます。
『ややこしい話なんで、できれば直接会って話したい』
「え? ああ、今すぐ新しい殺人事件とか起こらなかったら大丈夫だと思いますけど。……何かあったみたいですね?」
『うん。詳しいことはあとで話すよ、じゃあ』
通話はそこで切れた。井島との電話が短いことには慣れているので、木崎もとくにはつっこまないで携帯をしまう。
すると隣の席の刑事が腕をつついてきた。
「井島って「二課のミキちゃん」だろ。どうかしたのか?」
「今は「交通課の」だけどね。うーんよくわかんないけど、俺をご指名したってことは面倒ごとなんじゃないの……じゃ、俺はこれで上がりますんで、あとよろしく頼みました!」
「あってめえ木崎待てよ! おまえが帰ったらコーさんになんて説明すりゃいいんだよ!」
「えー? 井島さんに呼ばれたっつっといてください、たぶんそれで通じるんで」
「うそつけえええ!」
紛糾する刑事室のなか、木崎は鞄と上着をひっ掴むとこっそり抜け出した。コーさんというのは木崎の上司のことだが、彼もまた木崎や井島については詳しいので、実際「井島に呼ばれた」だけでも問題なく通じるはずだ。
さて、井島と落ち合う場所はどこだろう。
考えるまでもなく身体が動く。まっすぐ駐車場へ行って、自分の車の前までくれば、木崎の考えが当たっていたことがすぐにわかった。
落ちつきなさげに佇んでいる、井島幹樹がいたからである。
「や、久しぶりですね」
ひらりと手を上げると、井島はこちらを見て、ああ、と短く返事をした。普段おっとりな彼にしては愛想が悪い。どうかしたんですか、と尋ねれば返事の代わりに盛大な溜息が返ってきた。
とりあえず二人で車に乗り込んで、適当に発進させる。
ついでに食事でもするかと、木崎がカーナビに適当な料理屋を探させていると、井島はようやく話し始めた。
「きみは二課の五十嵐警部は知ってるか」
「は、ええと、名前くらいなら。男のほうの五十嵐ですよね」
「あ、じゃあ女性のほうも知ってるのかい?」
「ちょっと怖い五十嵐刑事、なら」
「ああうんたぶんその人なんだけど……」
井島は言いにくそうにしている。しかし木崎はそんなことより、まさかこのそういうことにはてんで疎い井島から女性の話を聞くとは思わなかったので、ちょっと驚いていた。
まあそりゃいくら純朴そうな顔をしていると言ったって、井島も三十すぎの一人前の男なのであるからして、そういうことがあっても全くおかしくはないのだが。
それがどうしたのだろう、と木崎はわくわくしながら車を走らせる。展開が予想できないので面白いのだ。が、対する井島の表情は暗い。
どうやら明るい話ではないらしい。
五十嵐刑事に何かあったんですか、と尋ねてみる。
「今朝、警部のほうから、彼女が家に帰っていないと聞かされたんだ。その、昨夜彼女を家に送ったのは僕だったから」
「はあ。容疑をふっかけられたわけですね」
「そうじゃなくて、その……どうやら彼女は拉致されて、どこかに監禁されているらしいんだよ」
「え、それ立派な事件じゃないですか! ……いや、待てよ、あの五十嵐刑事をわざわざ好きこのんで拉致監禁って、犯人どんだけマゾなんですか! いっそ尊敬しますよ俺!」
「その犯人、きみも知ってる人物なんだけど」
「えっ……ま、まさか井島さんが……」
「馬鹿言うんじゃない。……古田一十だよ、例の」
木崎は今度こそ驚いた。どれくらい驚いたのかというと、危うくハンドルを切りそこないかけた。
このタイミングでその名前を聞かされたら仕方がない。
古田一十──木崎が以前担当した殺人事件の第一発見者であり、重要参考人、つまり容疑者第一号だった青年だ。詐欺師が殺された事件で、真犯人は……魚の妖怪らしい。
車はなんとか車道を外れずに進み、一軒のラーメン屋に入った。
「ここ、けっこう騒がしいんです。聞かれたくない話をするのにはうってつけですよ」
というわけで、空腹を満たすことにする。
ラーメンを啜りながら井島が話した内容はこうだ。
古田一十は五十嵐七枝をどこかに監禁している。その居場所は井島が所有している呪いの本を「隠す」ことと引き換えだ。それまでは七枝の安全が保障されているし、このことを他の刑事や警察関係者に話すこともできる。
「はあ、捨てたり処分しろとは言われなかったんですね。まああとで自分がそれを回収するつもりなんでしょうけど」
「うん、それより僕が聞きたいのは、なんで僕があの本を持ってることを彼が知ってたのかってことだ。悪いけど話しそうな人が木崎くんしか思いつかない」
「すいません確かに俺です……本のために警察の資料庫まで荒らしに来そうな勢いだったんで、交通課の人間が持ってるとだけ……」
「それだけで僕が特定されるのか?」
「されますよ。正確には交通課にいる女名前の刑事って教えましたから、フルネームさえ聞く機会があればもう」
井島があっと声を出した。聞いてみれば、彼の目撃した交通事故(ここまで聞いて木崎は初めて井島と一十がどうやって接触したのかを理解した)のことを聞いた際に、自分のフルネームが入った報告書の下書きを持っていたのだそうだ。
字面だけでは分かり辛いが、幹樹という字の読みかたを考えると、ミキ、という音に辿りつくことはそう難しくはない。
「でも、なんでわざわざ五十嵐刑事なんでしょうね。俺だったら絶対に選びませんけど」
「うん、まあ、そうなんだけどね、ふつうは。……まさか尾行されてたのか……」
「え、なんかあったんですか」
「いやなんでもない。それより木崎くん、古田一十は車を持ってるかい」
「いや、少なくとも前の事件のときは臨海地区までわざわざ電車でかけつけてましたから。それに無職だし。
むしろ、俺の見たものがほんとうなら、古田一十は車なんかなくても速く移動できる手段を持ってますね、たぶん」
あえて含みを持たせた言いかたをしたので、井島はきょとんとしてこちらを見る。
「井島さん、本は読んだんですよね。ならわかると思うんですが、彼は人間じゃないですよ」
「……ああ、そうだったね」
木崎もあの書物の内容は頭に入っている。
──みずかきのある手、鱗に覆われた二股の尾。水棲人類はかつて陸上に上がり、この日本で、地上の人類と交わった。だがしかし海にもまだ人魚の国が残っていて、地上は兄が、海は弟が支配していた。
あるとき海の国に異変が起きた。弟は地上の兄に救援を求めたが、その願いは聞き入れられず、むしろ海の住人が地上に避難することさえ禁じられてしまった。
怒り悲しんだ弟は、兄と地上の国に対して、幾つかの呪いを送り込んだという。その呪いのひとつで、もっとも強大とされているのが、古田一十こと「イギン」。
そんな馬鹿げた話があるかと思うが、学者は真剣にそれを信じていたし、また古田一十の周囲では実際に、殺人事件やその他の事件事故が起きているのもまた事実だ。
問題はなぜかこの本を古田一十が手に入れようとすると、本の持ち主が殺されてしまうのだった。一十が言うにはその犯人は魚の妖怪で、性別は女だという。
木崎は見た。かつての事件のとき、一十が一瞬にして姿を消したのを。そしてそのとき残っていたのは、何かを引きずっていった痕だった。
ちょうどそれは、魚が、というか、蛇が通り抜けていったような痕跡だった。
「ところで井島さん。俺からもいろいろとトンデモニュースがあるんですか、いいですか」
「なんだい。今そんなに驚きたい気分じゃないんだけどな」
「俺、二冊目の呪い本を見つけました」
「な……なんだって!」
井島はわかりやすく机をばん!と叩いて驚いた。
「ちょっと話は長くなりますけど……ほら、俺、未だに鏡が見えないじゃないですか、水鏡のとき。それで夜とか非番のときとかにちょこちょこ練習してるんですよ」
「はあ」
「で、ふつうは生物しか触らないんですけどね? どうもあの本は古田養親子の執念というか、そういうものを溜めこんでて、水鏡でも触れちゃうんです。
それで、うっかり市内の図書館の処分コーナーにその本が埋まってるのを見つけちゃって……まさかと思って見にいったらほんとうにあるし、そのままにしといて誰かがうっかり持ってっちゃったりしたらまた殺されかねないし、で、どうしようか悩んでたらスタッフが欲しい本はすぐ持っていかないと!って急かしてきたもんですから、まあ仕方なくそのままお持ち帰りということに……」
古田一十がかれこれ四年ほど探し続けている本をこうもあっさり見つけられるとは、木崎とて思ってもみなかった。だが見つけてしまったものはしょうがないのだ。
市民を護るのはいちおう警察官の使命であるし。
「まあでも井島さんの話を聞いてはっきりしましたよ。どうやら俺も部外者ではなくなったようです」
「それはなんでまた?」
「最近、幸和子の鏡が盗られたんですよ。その前に樹和子が変な若い男に話しかけられるっていう事件があったらしいんですけど、そのあとに」
ちなみに幸和子が最愛の妻で、樹和子が最愛の娘である。
「まさか、幸和子さんや樹和子ちゃんにまで手を出そうとしたのか、彼は」
「かもしれませんね。でも幸和子が護っているから手が出ないことがわかったんでしょう。だから代わりに鏡を盗っていった。もしかしたら今ごろ、うちに脅迫電話でも入ってたりして……あ、ふたりは実家に帰らせてます。家に残しとくのが心配で」
そう言いながら改めて不安になってきた木崎は、携帯電話を取り出した。その瞬間だった。携帯がいきなりトッカータとフーガ二短調、つまり鼻から牛乳を歌い出したのだ。
クライスラーではないということは、妻からではない。
木崎はとにかく表示を確認した。──各務、と書かれている。この性を名乗っているのは幸和子の母親でつまり木崎からすれば義母で、現在は妻と娘の保護者だ。
──これはもしや、緊急事態か。
「もしもし、明彦です!」
大急ぎで電話に出ると、受話器の向こうでびっくりしたような声がした。
『あ、明彦さん? あの、わたし、幸和子だけど……』
「幸和! 無事かい? 樹和は?」
『きわちゃんはもう寝てるよ。お母さんに任せたから大丈夫。それより、あのね、明彦さん。
本をどこかに隠してこいって、例の若い男の子が言ってきたんだけど、これってどういう意味なの? ……わたし、明彦さんが心配で……だから……あの……こ』
ぷつり、とそこで通話は切れた。
木崎は携帯を見つめた。幸和子の声が震えていたことも、電話越しだったが気づいている。
たぶん間違いない。
幸和子は電話の向こうで、古田一十に脅されていた。もしかしたら義母か娘が人質に取られているのかもしれない。あるいは、幸和子自身が。
井島がこちらを見た。木崎は頷いた。
こっちもやられました、と声に出さないで言った。
そのあと木崎は井島を一旦県警まで送り届け、それから自宅に帰って件の本を持ち、再び署に戻った。そこには同じく本を入れているらしい包みを抱えた井島が待っていた。
また車に乗り込んで、今夜二度目のドライブに出る。
「井島さん、俺まだ話してないことがありました」
「うん」
「古田一十と五十嵐刑事は顔見知りです。前の事件のとき、詐欺師の資料なんかの関係で、五十嵐刑事を現場に呼んだんです。そこで一緒に彼の取り調べをしました」
「ああ……怖いでしょ、彼女の取り調べ」
「だからきっと犯人はマゾだって言ったんです」
口先では軽くジョークを飛ばしているが、頭のほうでは必死に考えていた。
隠し場所は屋外。それも誰にも見つからない場所。それをすぐに古田一十が確認できるような場所。
期限は指定されなかったが、木崎にはわかっている。
古田一十と本に関わった人間は、みんなその翌日には殺されている。まだ生きている井島など奇跡に近い。たまたま日中にひとりになる瞬間がなかったのだろう。
とにかく、今日がすでに期限なのだ。
つまり、今夜じゅうに片をつけなければいけない。
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