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5、混沌のスケルツォ

 夕方になってから、河北巡査から連絡があった。

 事務室では嶋原と被害者遺族が話しあっている最中で、そこには古田一十も来ているのだが、その一十が井島に直接話したいことがあるのだという。七枝のこともあって井島の気分はすぐれないのだけれど、仕事なのだから仕方がない。

 いっそ魚の妖怪のことについてでも問い詰めてやろうか。

 ならばむしろ二人きりにさせてもらうほうが、と思ったら一十のほうで人払いを頼んでくる。これはますます怪しい気がして井島の肩に力が入った。いや、彼を疑っているわけではないのだが。

 背中にはまだ嫌な気配が貼りついて消えない。

 とりあえず一十を連れて入れる場所がほかにないので、空いている取調室に入った。癖で鍵もかける。

 ちなみに交通課というのは地域のパトロールなんかもしているので、その際に軽犯罪者を捕まえることも少なくはないし、取り調べだってするのである。なので取調室もある。


「どうぞ、座ってください」


 ふつう取調室というのは中に入った人間に緊張感や圧迫感を与えるもので、それも警察官と一緒ならなおさらのはずだが、一十はリラックスしたようすで椅子に腰かけた。変なところで場馴れしているというか、殺人容疑を過去二回もかけられただけのことはあるというか……。

 井島のほうが緊張しているくらいだ。ふつう逆だろう。

 とにかく井島も彼の向いに腰を下ろした。パイプ椅子が軋む音がいやに響く。静かだった。


「お話の前に、僕からも少し覗いたいことがあります」

「なんですか?」

「僕は交通課で庶務をしたこともあるんですが、古田さんは交通事故に遭った経験がありますよね。十年ほど前に」

「そのとおりです」


 一十は微笑んで答える。


「それから殺人容疑をかけられたこともありますよ。知ってるだろうけど、二回くらい。しかも二度目は僕をひき逃げした犯人で、僕から金を巻き上げようとしていた詐欺師だった」

「最後のほうは初耳です。警察の資料では単なる友人だったとしか」

「ああそうなんですか。墓穴掘っちゃったかな」


 軽い調子で話す一十に井島は嫌な印象しか抱けなかった。昨日会ったときは、こうではなかったのに。

 いや、それよりもっと、危うい感じがする。まるで何かを楽しんでいるように見える。場にそぐわない子どものような純真な笑顔が、余計にそう思わせる。

 何がいったい、彼をそうさせるのか。


「でも井島刑事。その件で僕をまだ疑いたいなら、一課の木崎って刑事に聞いてみてください」

「木崎くんなら僕も知っている。彼から聞いたんです、その、古田さんの事件の陰にはいつも、……魚の妖怪がいるとか」

「ああ、もう知ってるんだ。なら話が早い。助かるなあ」


 一十はそう言って身を乗り出してきた。井島は気圧されつつも返す。


「その魚の妖怪がどこにいるのか、わかるんですか」

「それは知らないよ。僕は、彼女が近くにいたら、ああいるな、ってわかるだけだから。それより木崎刑事と知り合いってことは、彼のあの能力のことも知ってるんでしょ? あれなら彼女の場所も探せるよ。下手に近付いたら殺されるかもしれないけどね」


 井島は息をのむ。

 一十はどこまで知っているのだろう。木崎──件の捜査一課にいる井島の友人は、水鏡という能力を持っている。それを知っているのは井島の知る限り、彼の上司であるひとりの警部と、同じ能力を持っている彼の妻だけのはずだったのだが。

 それに。

 魚の妖怪のことを口にしたときの一十の反応はどうだ。話が早い、とか言わなかったか。それはつまり、一十のしたい話が、その魚の妖怪とやらと関連しているということだ。

 つまり、井島の持っているあの呪われた本に関わっていることになる。

 背筋をざわりと嫌な気配が這う。それは冷たい悪意、人間の力ではどうにもならない何か、あるいは恨み、憎しみだったこともあった。ああ、また耳鳴りがする。

 ──井島さん、井島さん、あいつを見つけました……。

 やめろ。井島は心の中で呟いた。

 やめてくれ。

 もうおまえは死んだんだ。死んでしまったんだ。だからもう、僕の前に現れるのはやめてくれ、と。

 古田一十は何か知っているのか、何も知らないのか、とにかく井島の眼をじっと見ていた。どうやら彼は井島が口を開くのを待っているようだった。だが井島はそれきり黙っていたので、諦めて一十のほうが話し始めた。


「刑事さん、あんた、昔は捜査二課にいたんだろ?」


 二課という単語に思わずぎくりとする。それも木崎から聞いたのだろうか。木崎と知り合ったときは、井島はまだ捜査二課に所属していた。

 井島の返事を待たずに一十は続ける。


「その二課での知り合いに、性格のきつい女刑事がいただろ。名前は五十嵐七枝……」

「七枝さんの行方を知っているのか!」

「まあね」


 明らかに動揺を示した井島を見て、一十はにやっと笑う。予想どおりの反応だと言わんばかりの表情に井島は苛立った。

 七枝の失踪にもやはり彼が一枚噛んでいたのだ。いや、井島の想像どおりならこれは失踪ではなく、拉致誘拐だ。場合によってはいろいろと余罪も発生しかねない。

 井島は考えた。よりにもよってここは取調室だ。

 このまま、ここで一十がすべて吐くまで粘ってやろうか。井島は取り調べがあまり得意ではないが、他の人間を呼んでいる余裕も暇もない。

 しかしだ。古田一十はたぶん、過去二回に渡って自らにかけられた殺人容疑から逃れてきた男だ。まだ若いが、何か底知れないところがある。その彼が何の策もなくのこのこと井島に閉じ込められるだろうか。

 そもそも二人きりで話したいと言ったのは一十のほうだった。取調室まではいかなくても、こうしてどこかの室内に軟禁状態になる可能性は予測できるだろう。

 そうなっても問題ないと踏んだから、二人で話したいと申し出たのではないか?

 まさか、と井島は勘繰る。七枝が置かれている状態が急を要するものだったら、むしろこういう状況で時間を稼いだほうが一十にとっては有利になる。黙っていればいるほど七枝が危険な状態に陥るのなら、だ。


「それで……僕はどうすればいい」


 井島は腹をくくることにした。今は大人しく従うほかに、七枝を救う手段はない。

 そんな井島に一十はこう答えた。


「勘違いしてない? 僕はべつに五十嵐七枝を拉致したわけじゃないんだよ……お互い、合意の上ってやつだから」

「……それは、どういう意味だ」

「協力してもらったってことさ。いいかな井島刑事、僕が要求することはただひとつ。古田今坂の著書を、誰にも見つからない場所に隠してきてほしいんだ」


 一十の指示はこうだった。

 古田今坂──かつて古田一十を養子にした大学教授の著書、つまり井島の所有するあの呪われた本だが、それを屋外で、かつ誰かに見つけられないような場所に隠す。それを一十が確認したら、七枝の居場所を井島に教える。

 このことは他の警察官に話しても構わない。それで七枝に危害が加えられることはない。ただ本を隠すことを怠れば、七枝だけでなく井島にも危険が及ぶだろう、と。


「僕は平和主義者なんだ。これくらいまどろっこしくしないと、例の彼女の眼を誤魔化せないから、しかたがない」

「彼女、というのは魚の妖怪?」

「そう。……あんた、本を読んだなら彼女の正体もわかってるんじゃないの? 僕はそれが知りたいだけさ」


 一十はそれだけ言うと席を立った。井島は彼の身柄を確保したい気持ちを押さえ、大人しく鍵を開ける。ドアの向こうに一十が去っていくとき、かすかに海の匂いがした。

 去り際、一十の囁いた言葉が、耳について離れない。

 ──七枝さんは、あんたを待ってる。

 一十はそのときもやはり微笑んでいた。それがなぜかひどく気に障った。何もかも知っている、と、言われたような気がしたからだ。

 ……おまえに僕の何がわかる。

 井島は取調室のドアの前で、小さく呟いた。

 イギン。井島だけが知っている、古田一十の正体。イギンという名前の、太古の呪い。本によれば、一十だけでは完成しないらしいが、井島にはそんなことはどうだっていい。

 とにかくこの呪いを解かなければ、女王様が帰ってこない。


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