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3、悔悛のインテルメッツォ

 ことが起きたのは翌日の昼すぎだった。

 事故被害者の遺族は遺体を拝んだショックから立ち直れてはいなかったが、いちおう話ができる程度ではあったので、嶋原から示談の申し出があったことを伝えた。絶対に断る、が返答だった。

 刑事訴訟となると井島たちの出番はそう多くなくなる。そんなわけで、必要な手続きなどは河北と他の部下に任せても大丈夫だったので、井島は本部に戻って事務的な仕事──たとえば別の事故の報告書をまとめたりしていた。

 そこへ現れたのが、二課の五十嵐警部。七枝の兄である。

 井島はもちろん昨夜なにかやらかした記憶など毛頭なかったが、いろいろな要素(相手はかつての上司であること、あの七枝が絡んでいるかもしれないこと、五十嵐の表情がとても険しいことなど)から緊張せずにはいられなかった。

 ただでさえ愛想のない無骨な顔立ちの五十嵐が、何かひどく苛立っているように見える。井島の経験からしてそれはとても恐ろしいことである。

 五十嵐はしばらく黙って井島を見つめていた。井島も井島で、彼の放っている気配に負けて、何か用ですかと声をかけることさえできずにいた。そんな沈黙が何分続いたことだろう。実際にはものの十秒前後だったとは井島は知らない。

 五十嵐はやたらゆっくりと口を開いた。


「……昨日、おまえ、七枝と会ったんだってな?」


 やっぱり妹のことだったようだ。


「あの、確かに僕が送りましたが……」


 おそるおそる答えながら井島は考えた。もしあの酔っ払いながらのプロポーズ(を、やんわり流した)の件だったらなんと説明すればいいのだろう。むしろ何を言われるというのだろう。

 しかし五十嵐の次の言葉に、井島の恐怖は吹き飛んだ。


「でも七枝は帰ってねえんだ。どういうことだよ」

「へ? ……どういうことですか?」

「俺が知るか。とにかく、今朝俺がこっちに戻ってきたら七枝の奴が無断欠勤してたんだよ。携帯も出ねえし、家にも入った形跡すらない。遅番してた二課の連中に聞いてみりゃ、おまえの車に乗ってどこかに行ったのを見たのが最後だって言われたんだぞ。

 ……てっきり、おまえの家にでも行ったのかと思ったじゃねえか、ちくしょう」


 いわれのない悪態を吐かれた井島はもう何と言っていいのかわからなかった。いい年して妹の色ごとに動転しているらしい五十嵐もどうかと思うが、七枝も無断欠勤だなんて、いったいどこに行ってしまったのだろう。

 さすがに相手はもう三十を超えた大人で、しかも現役の警察官だ。一日くらい行方不明でもそれほど心配する必要はないだろう。しいていえば彼女のキャリアには傷がつくくらいか。

 だが五十嵐の言うに曰く、「七枝はあれで真面目だから、理由もなくこんな真似をするわけがない」らしい。


「……男、だと思うか?」

「さあ僕にはちょっと……違うような気はしますけど」

「おまえもか。じゃあ、昨日のあいつのようすが、どこか変だったりはしなかったか」

「えっ、いや、とくには」

「ほんとうか?」


 五十嵐の疑いの眼差しは、なんというか、やっぱり七枝の親族なのだなと感じさせるものだった。井島は甘んじてそれを受けつつ、昨夜のことを思い返す。

 七枝はけっこう酔っていた。そのせいだろうが、いろいろと愚痴を言っていた。兄と家のことにも言及して、寂しそうにしていた。

 ただそれを見たままのとおりに伝えるのは避けたい。

 七枝はいつも仮面を被っている。顔ではしょげていても、口では笑って見せたりする。その逆もしかり。笑っていても怒っている。

 井島にはそれをきちんと見抜くことができない。だから五十嵐に語弊のないように伝えるには、かなり情報を絞らなくてはいけなくなる。つまり、こういうことだ。


「五十嵐さんに恋人はいないのかとか言ってましたよ」


 はあ、と間の抜けた声を出したのはもちろん五十嵐のほうだ。


「なんだそりゃ」


 そして昨夜の井島の心境と同じ科白を口にした。

 井島がもう少し砕いて説明をしたところ、要するに将来彼女が家を出るであろうことについて悩んでいるようだった、とそのまま告げたら、もう一度「なんだそりゃ」と言った。

 なんでも「家じゃさっさと結婚しろって言われてるんだが」だそうだ。

 やっぱりどちらが七枝の本音なのかはわからない。井島は頭を抱えたくなったが、それで五十嵐にその会話の結末まで話すことになるのは気がひけた。さすがにさっきの悪態のあとでは言えない。

 だいたいあのプロポーズ(?)だって、酔った勢いでの発言であって、それ以上の意味などあるはずがない。ないと思いたい。


「それ以外には、僕には思い当たるふしはありませんよ」


 井島はできるだけ何気ないようすを繕った。五十嵐はそうか、と重い調子で答えると、沈黙した。

 そのまま何分経っただろう。

 にゃあん、とかわいらしい声がふたりの耳に届いた。ぎょっとして声のした足許を見ると、そこにはどこから入ってきたのか、一匹の黒猫がまとわりついていた。身体はさして大きくはなく、仔猫というほどではないがまだ若い猫のようだ。


「なんだくろ、来てたのか」


 意外だったのは猫に対する五十嵐の反応である。猫をひょいと持ち上げると、スーツに毛がつくのも構わず小脇に抱えたのだ。猫はその体勢がちょっと嫌そうで、身をよじる。


「えっと……五十嵐さん、その猫はいったい……」

「あ、ああ。今飼ってるんだが、たまに俺の車に入り込んで署まで来ちまうんだよ」


 ちなみに井島は後で知ったが、この猫はすでに二課を中心として署内のマスコット的存在となっていたりする。

 井島はというと、五十嵐と猫のツーショットが似合わなさすぎて思わすまじまじと眺めてしまった。五十嵐が猫を飼っている姿が想像できない。

 いや、七枝も同じ家で暮らしているのだ。もしかしたら世話は彼女がしているのかもしれない。そのほうが井島としては納得がいく。

 とりあえず五十嵐はそのあと、井島がほんとうに七枝を自宅まで送っていったのかを再三確認してから、不満げなまま猫を抱えて捜査二課に帰っていった。そういえば自分の仕事はどうしたのだろう。まさか放ってきたのか?

 いろんな意味で五十嵐の意外な一面を見た気がした。自分だって「あれで案外真面目だ」と陰で言われているのに。

 しかし、七枝の失踪に井島とて動揺していないわけではない。

 確かに井島は昨晩、彼女を五十嵐家まで送り届けた。それは間違いない。上がっていけばと言われたことも断ったこともちゃんと覚えている。

 だが、七枝が家に入るところを見なかった。サイドミラーに映っていた、へらへらと笑いながら手を振る酔っ払いそのものの七枝を見て、そのまま車を発進させたのだから。

 まさかあのとき七枝の誘いに乗っていたら、こうはならなかったというのだろうか。

 考えを打ち消すようにかぶりを振る。七枝はきっと自分の意思でどこかへ行ったのだ。彼女はそういう性格だ。黙って誰かに連れ去られるような、そういう柔な女性ではない。

 その一方で気にかかるのは古田一十のことだった。

 出逢ってしまったばかりでこんなことが起きてしまうと、なにか関連があるようにも思える。死神が七枝を連れていってしまったのか、あるいは、彼に取り憑いているという魚の妖怪とやらが、井島の代わりに七枝を……?

 そんな馬鹿な。

 そうだ、馬鹿げている。妖怪だなんているはずがない。いるはずがないのに、井島の身体に、よく知っている感覚が蘇ろうとしていた。

 背中をひやりと這い上がってくる、この、悪意に満ちた気配。

 久しぶりに耳鳴りがした。昔、何度も何度も聞いた声が、最近ではすっかり聞かなくなっていたはずの声が、また井島に話しかけてきた。

 ──井島さん、あいつを見つけました。

 それは、かつて井島の後輩だった、ある捜査員の言葉だ。

 今となっては、それこそ死神の声と呼んでもいい。井島がこの幻聴を聞くときは、ろくでもないことが起きる前兆だ。

 一度目は、実際にこの言葉を口にした後輩が死んだ。山の神のなれの果てである鬼に殺された。

 二度目は、探していた容疑者の遺体が見つかって、その次に井島自身が殺人犯に殺されかけた。

 では、今度は何が?


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