2、酩酊するカプリチオ
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五十嵐七枝はS県警の捜査二課に所属する、主に詐欺事件を扱う捜査員だ。井島もかつては二課にいたのと、当時上司だった五十嵐警部が七枝の兄であったこと、そして同期だったことから顔見知りである。
ただ、井島は七枝が少し苦手である。
黙っていれば美人の部類に入るが、気が強くて女性的なかわいげがない。大人しい井島はよく七枝の玩具にされた。それに、一度だけ彼女の取り調べのようすを見る機会があったのだが、容疑者をねちねちと言葉で締めあげる姿が、正直いって怖かった。
そんな彼女(もちろん未婚)になぜ井島の前に現れたのかと尋ねたら、曰く県警本部から歩いてきたらしい。
確かに歩いて来られない距離ではない(今はパトカーがないので井島も歩いて帰るつもりだった)。でもそういう意味じゃない。
「兄さん、西月重まで出てて今夜は帰ってこないんだとさ。うち車一台しかないから帰れないし。で、幹樹くんと飲もうと思ったらここって言われたから」
「……僕の車も署に置いてきたんだけど」
「知ってる。帰ってこなさそうだから捕まえにきたのよ」
七枝はあくまで自分のペースに井島を巻きこもうとしているようだ。井島は丁重にお断りしたい気分でいっぱいだった。
いつもならそうしてもいいが、今夜はまずい。
助けられてしまった。その事実が、その真偽のほどは別として、井島の両肩をしっかりと掴んでいる気がした。
こういうとき律儀な性格をしていると損である。井島はそういう人間なのである。
そして同時に、ここで突っぱねて七枝をひとりにして、もし彼女に何か危害が加えらることがあれば、井島は後悔するだろう。
異動する前にさんざん世話になっていた五十嵐警部に合わせる顔がない。
だめだ、勝てない。七枝の圧勝だ。
しかたがないのでそのまま七枝と交番を後にした。ちなみに夜勤の警察官がいないと思ったら、奥で寝ていたので七枝が「優しく」起こしておいた。寝起きの巡査は泣きそうだった。
一旦署に戻り、書類を整理してから出ると、車のところで七枝が待ち構えていた。ほっとしつつもぞっとする。
「そういえば幹樹くんと飲むの久々じゃない? 異動する前だから、まあ、半年くらいか」
「僕は運転するんだから飲まないよ」
「そういう問題じゃないでしょ」
なんだかんだ言いながら、区内のこぜまい居酒屋に入る。
「だいたい、なんで僕? 吉村さんとか伊集院とか、二課にいくらでも適任がいると思うんだけど」
「みんな遅番です、残念でした。とりあえず芋が飲みたい」
七枝にしては下手なはぐらかしかたをした。だが井島は怪訝に思いつつも料理と芋焼酎を注文してしまうのだった。
晩酌の相手に選ばれた理由はこれじゃなかろうな、と思わないでもない。
そして案の定、そのあと七枝は焼酎を啜りながらうだうだと愚痴を零しては逐一井島の意見を求める、という面倒極まりない存在になった。
こういうのは大抵、誰かに聞いてもらいさえすれば気が納まるという代物なので、井島もできるだけ聞き流すように努める。だいたい最近入った二課の新人がどうだなんて話は、今の井島には知ったこっちゃないのである。
幸いにしてこれは取り調べではないから、黙秘を貫いてもちゃんと家に帰ることができる。それだけは安心していい。
しかしやっぱり相手は七枝なので、そう簡単にいかないのだ。
「……だから、兄さんにしてみれば私が邪魔なのかなと思うんだけど、どうよ、幹樹くん」
「はい?」
唐突にまずそうな匂いのする話題が振られて、井島はつい間の抜けた返答をしてしまった。
当然ながら聞き流していたことがばれて、七枝の怒りにふれた。というか、何か危険なスイッチを入れてしまったらしかった。
「みきぃ……聞いてなかったね?」
「いや、その」
じっとりと突き刺さる七枝の眼差し。口答えは許さない、と顔に書いてあるようだ。たぶん、この顔をされたら世の男はみんな黙り込んでしまうに違いない。それも母親に叱られる子どものような気持ちで。
でも黙っているほうが状況は悪くなる。取り調べであればさっさとぶちまけたほうが実際問題ことは早い。もちろん冤罪は論外だが、井島の場合は不慮の過失だからどうしようもない。
なので、素直に謝った。
そしたらなぜか一笑された。なぜゆえ。
「ごめん、今のわざと」
あまりの理不尽なできごとに、井島は言葉が出なかった。
そうだ、相手は取調室の女王様と呼ばれたこともある人で、泣きながら出てきた容疑者もいたとか、そんな話もあった。でもなぜ井島が彼らと同じ憂き目に遭わなくてはならないのだ。
七枝はしばらくけたけた笑っていて、改めて井島は彼女のことが苦手だと再認識した。やっぱり断ればよかったかもしれない。今さらながら溜息をついた。
すると七枝が急に真面目な顔をしたので、思わず身構える。
「いじめたのは悪かったけど、けっこう本気の話だったりするから、ちょっと気を取り直して聞いてほしいんだけど」
「はあ」
「兄さんがいい歳して彼女のひとりも連れてこないのは、やっぱり私に気兼ねしてるからだと思う?」
「……それをなんで僕に訊くのかがわからないよ、まず」
井島の返答が気に入らないのか、七枝はむうと唸る。
「だからぁ、兄さんにそれっぽい女の影はなかったのかって訊いてるんでしょうが。あんた、いちおう異動前までは兄さんのお気に入りだったんだからね、いちおう」
なんだそりゃ。
あと「いちおう」を二回言ったのはわざとか。
そりゃあたしかに五十嵐警部には世話になったが、しかしプライベートのことなど知りようがない。もともと井島はそういうことには疎いし、五十嵐もあまりオープンな性格とは言えないから、お互いその手の話題をしたこともないのだ。
妹である七枝が知らないのなら、井島などなおさら知っているわけがない。と思うのだが、七枝に言わせれば、井島のほうが聞いていそうなのだそうだ。その基準はどこからきた。
「それに、五十嵐さんは気兼ねしたりはしなさそうだけど」
「ま、そうなんだけどねー。いやでも、どのみち兄さんが家を継ぐことになるでしょ、んでいずれは結婚とかするんじゃないの。
さすがに新婚と同居は私も嫌だし、そしたらあの家から出てかなきゃなあ……」
出ていく、のくだりをいかにも寂しそうに言いながら、七枝は焼酎を呷った。
見た目だけは荒れてるな。だた実際のところはどうかというと、井島にはよくわからない。彼女のそういうところが苦手なのだ。
怒っているのか、笑っているのか、泣いているのか、わからない。
ただ井島というのは単純な性質があって、とりあえず寂しそうに見えると慰めたくなってしまう。きっと慰めたところで、今度はからかわれるか八つ当たりされるか、とにかくいい結果には落ち着かないのに。でもついつい手を差し伸べてしまう。
相性が悪すぎる相手なのだと、思う。
「……幹樹くん」
七枝が急にこちらを見た。
「うん」
突き離せない性質の井島は、諦めて頷く。
「いっそのこと、結婚しようか」
「七枝さん、もうけっこう酔ってるね?」
「まあね」
へへへ、と声では笑っているが、七枝の顔はまだ寂しそうなままで、どちらも偽もののような気がする。もう出ようか、と言ったら意外にも七枝は素直に頷いた。
いちおう五十嵐家の場所は知っているので、責任を持って自宅まで送り届ける。車の中で七枝はうとうとしていて、女王様ではなくなっていた。ふつうの女の人だ。ただ感情表現がやたらにややこしいだけの。黙っていればそこそこ、の。
それでもなぜか、いつもこうだったらいいのに、とは言えなかった。
いざ五十嵐の家に着くと、七枝は上がっていけば、とここへきてとんでもないことを言ったが、今度こそ丁重にお断りした。上がってしまってはいけないと思った。どう考えても酒を飲まされそうな気がしたし、そのまま取り返しのつかない展開に陥りかねない。
自分が自分でなくなりそうで、嫌だ。
どうしてそう思うのかはわからない。でも、嫌悪感がある。
五十嵐七枝が苦手だ。振り回されるばかりで、心の落ち着く暇がない。きっと、だから嫌なんだと、思う。それもどこか釈然としないが、それ以外の解答が思いつかない。
門扉の隣で手を振っている七枝をサイドミラーで見ながら、井島は小さく溜息をついた。
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