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1、終幕を告げるオーヴァーチュア

 井島幹樹は、この職場に配属されてから何度目かわからない、悲惨な姿の仏を拝んでいた。

 日本は相変わらず自動車大国でマイカー社会であるので、毎日大なり小なり交通事故に類するものが起きている。むろん井島の勤めるS県警交通部交通課にもそういった事故の報告が入るので、管轄内であれば現場に行って、各種処理やら手続きやらに勤しむ日々である。

 そんな職場にいれば当然、大きな交通事故で眼もあてられない姿になってしまった遺体に出逢うこともままある。

 だからといってそう簡単に慣れてしまえるものではないし、決して慣れたいとは思わない。少なくとも井島はそう考える。

 そして今日も、顔どころか上半身まるごと潰れて粉砕した凄まじい仏さまとご対面して、ひとり静かに公衆便所の個室に籠もって嘔吐に耐えていた。


「井島さん、大丈夫すか?」


 この状態をわかっているのかいないのか、後輩の巡査がいやに落ち着いた声をかけてくる。井島は返事をするのも覚束ないのでとりあえずノックを返した。だいたい大丈夫だと答えていいかどうかも怪しい。

 五分ほどそうしていると落ち着いてきたので、タオルハンカチで顔を念入りに拭いてから外を覗った。巡査はもういない。

 ちなみに井島の籠もっていたトイレというのは、事故現場の近くにある羽根橋運動公園のものだ。

 ここは市の北西部、羽根橋町の運動公園前通り。すぐ傍に高速道路が通っているため深夜でも交通量はそこそこで、事故の発生率もまあそれなり、というエリアである。

 今回など乗用車とバイクがお互いかなりのスピードで衝突したものだから、バイクに乗っていた若い男性(身元不明)は乗用車とまともにぶつかって十数メートル吹き飛ばされた挙句、彼自身の重いバイクの下敷きになった。

 上体は眼で見ただけでも複雑骨折どころの騒ぎではなく、鑑識によれば即死だった可能性も高いそうなのが、不幸中の幸いと言えるか否か……。

 一方セダン型の乗用車を運転していたのは中年の男性で、嶋原と名乗り、こちらは軽傷で済んでいるがばっちりアルコール反応が出ている。

 嶋原が自分で話した内容では、彼は飲酒したのち酔いを醒ましてから高速に入り、S市北西方面出口から自宅に向かっていたところ、正面に突然バイクが現れたので避ける暇もなく衝突した、とのことである。


「嶋原さんね、酒気帯び運転は最近規制が厳しくなってるのは知ってるでしょ……あとここの道路ずっとまっすぐだから、ちゃんとしてたらバイクだって見えてたはずだよ」

「はあ、でも、見えなかったんで。あ、ほら、バイクの人ね、ライト着けてなかった、うん、着けてなかったんですよ」

「嘘はやめといたほうがいいよ?」


 嶋原の相手をしているのは先ほどトイレで井島に声をかけた巡査だ。河北探勝、という古風というか一風変わった名前の持ち主で、同じく名前にコンプレックスのある井島とはなんとなく親近感を感じている……かもしれない。交通課の人は彼をタンショーと呼んでいる。

 河北巡査は淡々としているが、夜が明ける頃には被害者の身元が判明し、そうなれば遅かれ早かれ遺族が到着して、訴訟やら賠償やらの話になるだろう。嶋原はそのときまでのらくらと嘘の証言をし続ける気なのか、しつこく「ライトは着いていなかった」と繰り返していた。この事故を通報した人間がいたこと、その人がすべて見ていたことはもう忘れているらしい。

 ……バイクのランプはきちんと点灯していた。

 目撃者であり通報人でもあるその人は、気分が悪いといって今は近くの交番で休んでもらっている。井島にはもちろんその気分の悪さが、情けないほどよくわかる。

 人間の造った道具で、人間の形がなくなるほどの事故が起きる、それもほぼ人間自身の過失だけで。やりきれない話だ。

 井島がひそかに落ち込んでいると、携帯に連絡がきた。被害者の身元がわかったらしい。遺族にもどうにか確認がとれたらしく、示談にするか訴訟にするかは明日になってから、遺族が話せる状態になったら、とのことだ。


「河北くん、身元わかったそうだよ」

「あ。はい」


 嶋原が弾かれたように井島のほうを見る。何か言おうとしたが、井島が険しい顔をしていたせいか黙り込んだ。酒が入っていなければもっと気の弱い男なのかもしれない。


「嶋原の勾留は任せる。冷静じゃないようだし、注意は怠らないように。万一のことがあったらすぐ連絡」

「了解っす」


 おろおろと井島と河北とを見比べている嶋原を、河北巡査は何も言わずさっさとパトカーに乗せた。その手際が妙にきれいだったのが印象に残った。

 そのあと井島は鑑識からの報告書を受け取ってから、事故の目撃者に話を聞きにいった。

 底冷えのする晩冬の夜だというのに、交番の入り口には青年が蒼い顔をして突っ立っていた。彼が目撃者だ。どうしてそんなところに立っていたのかはわからない。


「古田さん、でしたよね。とりあえず中に入って」

「あ、はい」


 改めて近くで見ると、ひょろりと長く痩せた体躯だ。顔もなんだか色白でやつれていて、毎朝通勤ラッシュに揉まれている内勤のサラリーマンと言われても納得できそうだが、これで無職の半ば日雇い労働者だというから不思議である。

 彼、古田の名前は、一十と書いてカズトと読む。タンショーくんに引き続き変わった名前だ。いや、読み自体はよくある名前だが、字面が凝っている。若干無理があるな、とも思う。

 そして井島は、そんな彼の名前を、以前にも眼にしていた。珍しい書きかたをするから覚えていたのだ。

 むしろ、彼はS県警察の一部ではちょっとした有名人だ。

過去に二度も殺人事件の重要参考人として取り調べを受けた経験があり、そしてそれ以前にはひき逃げの被害者だった。井島は二度目の殺人事件の際、捜査一課の知人に頼まれてひき逃げ事件の捜査記録を確認したこともある。

 古田一十は、その事件で記憶を失っている。

 身元は判明せず、大学教授の古田氏の養子となったので古田と名乗っているが、その古田氏は殺された。それが最初の殺人事件だ。

 容疑者と目されたが証拠不十分で釈放され、それから三年後にひき逃げの犯人であり詐欺師の男が殺された。これが第二の事件。彼は再び取り調べを受けているが、やはり証拠もなく動機もはっきりしないため、逮捕されることはなかった。

 井島にとってそんなことはどうだっていい。それより、彼について一課の知人が話していたことのほうが、よほど井島にとっては懸念事項だ。

 ──あの青年は、死神か何かかもしれませんね。


「とりあえず、古田さんが見たことをもう一度、最初から話してもらえますか」


 しかし、一十のほうでは井島を知らない。井島もこれまで捜査一課に属したことはないので、直接彼の関わった事件を捜査したことはなく、古田一十の名前を知ってはいても、一十本人に会うのはこれが初めてだ。

 それに現場には先に河北巡査が来ていたので、目撃者の名前も彼から伝え聞いたのであり、つまり、そのときの井島の衝撃は一十には伝わっていないであろう。

 とにかく一十は何も知らないで、井島に事故のようすを事細かに説明してくれていた。井島はそれを文字に起こして報告書にまとめられるようにした。


「訴訟になれば、あなたの証言が求められます。よろしいですね」

「はい。……ところで、あの、僕の顔に何かついてますか?」

「え?」

「あ、いや、なんでもありません。では」


 井島の目線に気がついていたのだろう。一十は少し訝しそうにしているが、その日は帰らせた。連絡先が近くのカプセルホテルになっているのがなんとなく気にかかる。

 そのまま報告書を書きながら、井島はぼんやり考えた。

 捜査一課の知人が井島に一十の話をしたとき、一緒にとある本を渡された。黒い装丁の、おどろおどろしい題と手書きの署名のある、故・古田教授の著書だ。

 これは呪われた本なんですよ、と知人は言っていた。

 ──この本を持っている人と古田一十が会うと、魚の妖怪が海から這い上がってきて殺されるんだそうです。あの詐欺師や教授みたいに。

 だから遺留品として保管しようと思ったんですが……いや、とりあえず井島さんに読んでもらいたくて。交通ならたぶん遭遇する確率は低いですよ、大丈夫大丈夫──。

 どこが大丈夫だというのか。今日、こうしてばっちり遭遇してしまったではないか。

 もちろん井島とて、そんな非科学的な話を鵜呑みにしようなどとは決して断じて思わない。少なくとも今日まではまったく気にしていなかった。

 だが、事故現場で凄惨な遺体を拝んだあとの精神状態で、死神とされる人物の名前を耳にすれば、さすがに気分が悪くならずにはいられなかった。

 そしてよほど河北に任せようと思った。実際そうしてもよかったのだが、それを実行するより早く河北が一十を連れてきてしまったのだからもう後の祭りである。

 呪われでもしているのだろうか、と井島は自嘲した。

 思えば手塩に掛けた後輩には早々に殉職され、そのあと殺人犯に殴られ、超能力みたいなもので「ねじまげ」られた結果溺れかかった。むしろよく死ななかったものだ。

 そして今夜は魚の妖怪に絞め殺される予定らしい。

 井島はそっと拳銃を確認した。普段は持ち歩かないのだが、たまたま昼に署内で所持品検査があったので、そのとき携帯してそのままにしていた。ありがたい偶然だ。

 生き残れ、と誰かに激励されているように感じる。それが神か仏かは井島の知るところではない。

 しいて祈るのなら、どうか、正当防衛が認められますように。

 井島は顔を上げた。物音がした。

 締めきっていた扉の擦りガラスに人影が映る。

 きたな。呟いて立ち上がる。

 扉が開く。拳銃に手を伸ばす。手にうっすらと汗が滲む。


「あ、いたいた、ミキくん」


 見知った顔と聞き覚えのある声に面食らう。そこに立っているのは、井島の知る限り人間であるはずの人物だった。同期で、もと同僚で、もと上司の妹。魚の妖怪とかではきっとない。

 助けられてしまった?

 安堵すると同時に、虚しくなった。


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